第131話 短文に隠された懇願
女医乃深雪のスマートフォンに、篠原からの不自然なほど短いメッセージが届く、ほんの数十分前のこと。
ベッド脇のソファにぐったりと腰を下ろした篠原は、右手にスマートフォンを握りしめたまま、焦点の定まらない虚ろな瞳で目の前の惨状を見つめていた。
乱れきったベッド。そして、自分自身の身体からとめどなく溢れ出た愛液によって、ひどいシミを作ってしまった真新しいシーツ。
「はぁ……っ、ふ……」
荒い呼吸と共に、乾いた唇から惨めな吐息が漏れる。
なぜか、夜の間だけは泥のように眠ることができた。しかし、朝の光と共に意識が浮上した瞬間、地獄は容赦なく口を開いた。
目覚めと同時に、下半身の奥底からジリジリと這い上がってくる『1.2倍の微熱』。シーツと肌が微かに擦れるだけの刺激すら、高密度化した神経回路が過剰に拾い上げ、狂おしいほどの疼きへと変換してしまう。
たまらずシーツに顔を押し当て、震える指を自身の秘所に這わせた。
かつての自分であれば、間違いなく絶頂に達し満足していたはずの快感。現に、指先から伝わる快楽は以前の倍以上に跳ね上がっていた。
しかし、どれだけ身体を震わせても、一向にあのノイズが治まる気配はない。
脳の報酬系が、『こんなちっぽけな刺激ではないだろう』と冷酷に突き返してくるのだ。
そして脳は、足りない快楽を補うかのように、最も強烈な記憶を強制的にフラッシュバックさせる。
自身の浅い指先などでは到底届かない、無数の電極によって神経の髄まで暴き立てられた、あの暴力的な到達点――。
そのおぞましくも狂おしい記憶自体が新たなガソリンとなり、一度は静まりかけたはずの身体に再び容赦なく火をつける。
「……ぅ……おぉっ……違う、これじゃ……ない……っ」
獣のように低く唸りながら自らを慰め、足りないと絶望し、あの無慈悲な機械の記憶に灼かれてまた無心で指を動かす。終わりのない不毛な行為を何度も繰り返した結果が、目の前に広がる惨めなシミだった。
(私は、学園の委員長なのに……)
どろどろに疲労しきった身体で、篠原は手元のスマートフォンに視線を落とす。
画面には、女医乃深雪のアドレスが表示されていた。
(早く、治療法を……。この狂いそうなノイズを消すための、その、治験を……っ)
『もう耐えられません。早く何とかしてください。早く治験をして、治療法を。前回も、あのセンサーを使った治験の後は、一時的に症状が治まりました。だから早く、取り敢えず治験を――』
フリック入力で、感情のままに文字を打ち込んでいく。
事実、二度目の治験で、あの『多点センサー』を挿入された後、暴走していたノイズはしばらくの間、嘘のように鳴りを潜めていた。
最適化した脳が圧倒的な快楽を与えられ、一時的な『満足(休息)』を得ていたからに過ぎないのだが、篠原はそれを「治験によって症状が緩和した」のだとすり替えて信じ込んでいた。いや、そう信じ込まなければ自我が保てなかったのだ。
だが、送信ボタンを押そうとした親指が、ふと空中で止まる。
画面に並んだ、悲痛な文字の羅列。
それを冷静な『委員長』としての視点で読み返した瞬間、篠原はハッと息を呑んだ。
(……だめよ。これじゃあまるで、私が……あの下品な機械を欲しがって、自分から哀願しているみたいじゃない……っ)
理性の最後の防波堤が、悲鳴を上げた。
「治療のため」という建前をどれだけ並べ立てても、文面から滲み出る隠しきれない『飢え』と『欲情』。もしこれを送れば、女医乃深雪にすべてを見透かされてしまう。
「っ……、うぅ……っ!」
篠原は小さく呻きながら、震える指でバックスペースキーを長押しした。
タタタタッ、と。必死に絞り出した本音が、無機質な速度で消去されていく。
すべてを消し去り、真っ白に戻った入力画面。
限界まで摩耗したプライドと、今すぐにも狂いそうな肉体の狭間で、篠原がやっとの思いでひねり出したのは、たった一行の短い定型文だった。
『お休みのところすいません。その後、お変わりないでしょうか?』
その文字面だけを見れば、ただの事務的な挨拶だ。
この一行に、自分のすべての絶望と懇願が込められていることなど、深雪には到底伝わらないかもしれない。それでも、これ以上惨めな言葉を紡ぐことは、彼女のプライドが許さなかった。
震える指先で、迷うように、祈るように――篠原は送信ボタンをタップした。
*
そして、現在――。
送信されたメッセージを受信した、深雪の視点へと戻る。
「随分と、短文ね……」
深雪は小さく呟き、「お変わりありませんか」という画面の文字を見つめながら、少しだけ何かを悟ったような表情を浮かべた。
だが、深く詮索することはしなかった。
手帳を取り出し、再来週のスケジュールを確認すると、スマートフォンの画面に極めてフラットなテキストを打ち込んでいく。
『わかりました。機材の準備は整っています。再来週のご都合はいかがでしょうか?』
送信ボタンをタップした。




