第130話 想定外のイレギュラー
(時計の針が午前九時を回った頃、深雪は頭の芯に残る微かな重みと共に目を覚ました。)
いつもなら規則正しく目を覚ます彼女にしては、随分と珍しい寝坊だった。こめかみの奥で小さく脈打つ鈍い痛みを感じながら、ベッドの上に上体を起こす。
「……少し、飲み過ぎたか」
誰に言うでもなく呟き、深雪は自嘲気味に小さく息を吐いた。あれだけ自分のペースを乱され、大量の酒を煽らされたのはいつ以来だろうか。
気怠い身体を引きずって洗面所へ向かい、蛇口を捻る。両手に掬った冷たい水で顔を洗い、タオルで水気を拭き取ってから、ふと鏡を見上げた。
そこには、ほんの僅かに疲労の色を滲ませた自分の顔がある。
その鏡越しの顔に重なるように、昨晩対峙した女の姿が脳裏を過った。
あれだけの量の冷酒を、まるで水でも飲むかのように空けておきながら、彼女は顔色一つ変えなかった。微かな赤みも、酔いによる身体の揺らぎも一切見せない。
(それにしても……気味が悪いほど、肌の綺麗な女だったな)
隙のないパンツスーツ姿と、作り物のように整った端正な顔立ち。そして、完璧な営業スマイルの奥で、一切笑っていなかった漆黒の瞳。
深雪は小さくかぶりを振ってその残像を振り払うと、キッチンへと向かった。
休日の静寂の中、慣れた手つきでコーヒーを淹れる。立ち昇る芳醇な香りと温かな湯気が、二日酔いの頭を少しずつ、だが確実にクリアにしていく。
マグカップを片手にリビングへ戻った深雪は、ふと、ソファに置かれたままになっていた昨晩の鞄に目を留めた。
コーヒーをテーブルに置き、鞄の口を開ける。
中から指先で摘み出したのは、昨晩渡された一枚の真新しい名刺だった。
白地にシンプルな印字。深雪はその文字を、冷めた視線で静かに読み上げる。
「……医療機器メーカー、営業チーフ。進藤 玲、か」
世界的権威であるはずのデビッドを『中々優秀な研究者でした』と、まるでただのサラリーマン研究者を評するかのように言ってのけた、あのフラットな態度。
それは、彼女自身がデビッドと同等のレベル、あるいは同じ景色を見る高みにいるからこそ自然と出る言葉だ。深雪のレポートの核心をサラリと突いてきたのも、単なるハッタリではなく、彼女の根底にある本物の力量の証明に他ならない。
(それにしても……随分と怪しまれているわね)
深雪はコーヒーを一口啜り、昨晩のヒリヒリとした探り合いを反芻する。
特に深雪の気を引いたのは、不正医療による患者の拘束に関する話題が出た時のことだ。進藤は薄く笑いながら、核心を突くように問いかけてきた。
『あの新型拘束具(スマート空圧式処置チェア)は、そのように利用できるものですよね?』と。
そもそも、裏の目的のためにアレを病院に導入した時点で、進藤のような異常な知識と観察眼を持つ人間がいれば、その不自然さに感づかれてしまうのも無理はない。
(少し、迂闊だったかしらね……)
己の隠蔽工作の甘さを静かに省みながらも、深雪の口元には自然と自嘲気味な笑みが漏れていた。
「まあ……あんな規格外の人間が、ただの営業に紛れ込んでいるなんて完全に想定外だったけれど」
独りごちたその呟きは、どこかこの予期せぬイレギュラーとの遭遇を面白がっているようにも響いた。
そして深雪の脳裏に、昨晩の最後に進藤が放った言葉が蘇る。
『私を、助手として雇ってみませんか?』
その言葉自体は、冗談めかした響きを持っていた。だが、深雪は見逃していなかった。あの瞬間の進藤の瞳に宿っていたのは、営業スマイルの裏にある冷たい狂気でも、探りを入れるための狡猾な光でもない。
未知の事象に対する純粋な渇望――紛れもない『研究者の目』だった。同類である深雪には、それがはっきりと分かった。
あの言葉の真意はまだ読めない。単にカマをかけられただけなのか、それとも、抑えきれない研究者としての本性が漏れ出た結果なのか。
「……ふふっ」
深雪はマグカップの底に残ったコーヒーを飲み干すと、再び小さく苦笑した。
「まあ、彼女とは今後も接触する機会はいくらでもるだろうし……いずれ分かることね」
そうやって思考に区切りをつけようとした、その時だった。
テーブルの上に置かれたスマートフォンの画面が短く震え、着信を知らせた。
画面に目を落とすと、メールの送信元には『篠原』という文字が表示されている。
休日の朝からの連絡に僅かな疑問を抱きながら、深雪は画面をタップしてメッセージを開いた。
『お休みのところすいません。その後、お変わりないでしょうか?』
文面はただそれだけだった。
深雪はわずかに眉をひそめ、その短いテキストを静かに見つめる。
「……? 委員長にしては、随分と短文ね」




