第129話 進藤玲という劇薬
白木のカウンター越しに微かに聞こえていた板前の包丁の音も途絶え、店内はしっとりとした大人の夜の空気に包まれ始めていた。
追加で頼んだ大吟醸のグラスを傾けながら、深雪は正面に座る「ただの営業ではない女」を静かに観察していた。
冷酒のアルコールは確実に血を巡っているはずだが、進藤の少し西洋の血を感じさせる端正な顔立ちには、ほんのりとした赤みすら差していない。
「……それほどの知識と異常な発想力がありながら、なぜ一介の営業マネージャーなんてやっているの? 本社の開発室に引きこもっていた方が、余程あなたの性に合っているでしょうに」
「普段は開発室にいるんですよ。ただ、上がってくるデータを見て『面白いクライアント』を見つけた時だけ、こうして自ら現場に出るようにしているんです」
進藤は涼しい顔で大吟醸を口に含み、言葉を継いだ。
「それに……以前はボストンの研究所にいたんですが、あちらはとにかくコンプライアンスやら倫理委員会やらがうるさくて。嫌気が差したんです」
ボストンの研究所。その単語に、深雪は少しだけ目を細めた。
「ボストン……私も面識があるわ。デビッドがいるところよね?」
深雪が世界的な脳神経学の権威の名をさらりと口にすると、進藤は心底つまらなそうに肩をすくめた。
「ええ。デビッドさんも、昔は中々優秀で尖っていたんですがね。結局は倫理やらルールに絡め取られて、今やすっかり『ただのサラリーマン研究者』ですよ。あれでは何も面白いものは生まれません」
その瞬間、深雪はグラスを持たない方の手で口元を覆い、声を殺して肩を震わせた。
常に完璧な氷の仮面を被り、大学病院でも滅多に表情を崩すことのない女医乃深雪の、久しぶりの満面の笑みだった。
(あの世界的権威を捕まえて『サラリーマン研究者』ですって? 本当に……なんて傲慢で面白い女なのかしら)
深雪が肩を震わせるのを見て、進藤もつられたように小さく笑みをこぼした。
やがて、温かいお茶が出され、会食がお開きに向かう空気が個室に漂い始めた頃。
ふと、進藤がグラスの縁をなぞる指を止め、真っ直ぐに深雪の目を覗き込んできた。
「……女医乃先生」
「何?」
「先生となら……もっと面白い研究や、臨床ができそうです」
その時の進藤の目は、先ほどまでの完璧な『営業スマイル』の時とは全く違う、今までで一番暗く、熱を帯びた色をしていた。純粋な知的好奇心と、倫理のタガが外れた者特有の不気味な光。
「もしよろしければ……私を先生の『助手』として、雇ってみませんか?」
個室に、しんと冷たい沈黙が落ちた。
深雪は表情を一切変えず、ただ氷のように冷たい視線で進藤を見つめ返した。互いの呼吸の音さえ聞こえそうな数秒の間。
やがて、進藤がふっと目を伏せて沈黙を破った。
「……なんて。冗談ですよ」
顔を上げた進藤には、再び華やかな営業マネージャーの笑顔が貼り付いていた。
「失礼いたしました。流石の私も、美味しいお酒に少し酔ってしまったようです。今のは忘れてください」
*
「本日はありがとうございました。また後日、改めてご連絡させていただきます」
店を出て、スマートに手配されたタクシーのドアが閉まる。
綺麗に頭を下げる進藤の姿が、夜の街のネオンの中に遠ざかっていく。
後部座席に深く体を沈め、深雪は流れる夜景を窓越しに見つめながら一人思案した。
(……鋭い女ね。今日の会話の節々で、巧妙に探りを入れてきていたわ)
あの目。彼女は間違いなく、直感で感じ取っているのだ。深雪が表の臨床報告には決して出せない、何か『裏』の研究をしているということを。
「……本当に、
白木のカウンター越しに微かに聞こえていた板前の包丁の音も途絶え、店内はしっとりとした大人の夜の空気に包まれ始めていた。
追加で頼んだ大吟醸のグラスを傾けながら、深雪は正面に座る「ただの営業ではない女」を静かに観察していた。
冷酒のアルコールは確実に血を巡っているはずだが、進藤の少し西洋の血を感じさせる端正な顔立ちには、ほんのりとした赤みすら差していない。
「……それほどの知識と異常な発想力がありながら、なぜ一介の営業マネージャーなんてやっているの? 本社の開発室に引きこもっていた方が、余程あなたの性に合っているでしょうに」
「普段は開発室にいるんですよ。ただ、上がってくるデータを見て『面白いクライアント』を見つけた時だけ、こうして自ら現場に出るようにしているんです」
進藤は涼しい顔で大吟醸を口に含み、言葉を継いだ。
「それに……以前はボストンの研究所にいたんですが、あちらはとにかくコンプライアンスやら倫理委員会やらがうるさくて。嫌気が差したんです」
ボストンの研究所。その単語に、深雪は少しだけ目を細めた。
「ボストン……私も面識があるわ。デビッドがいるところよね?」
深雪が世界的な脳神経学の権威の名をさらりと口にすると、進藤は心底つまらなそうに肩をすくめた。
「ええ。デビッドさんも、昔は中々優秀で尖っていたんですがね。結局は倫理やらルールに絡め取られて、今やすっかり『ただのサラリーマン研究者』ですよ。あれでは何も面白いものは生まれません」
その瞬間、深雪はグラスを持たない方の手で口元を覆い、声を殺して肩を震わせた。
常に完璧な氷の仮面を被り、大学病院でも滅多に表情を崩すことのない女医乃深雪の、久しぶりの満面の笑みだった。
(あの世界的権威を捕まえて『サラリーマン研究者』ですって? 本当に……なんて傲慢で面白い女なのかしら)
深雪が肩を震わせるのを見て、進藤もつられたように小さく笑みをこぼした。
やがて、温かいお茶が出され、会食がお開きに向かう空気が個室に漂い始めた頃。
ふと、進藤がグラスの縁をなぞる指を止め、真っ直ぐに深雪の目を覗き込んできた。
「……女医乃先生」
「何?」
「先生となら……もっと面白い研究や、臨床ができそうです」
その時の進藤の目は、先ほどまでの完璧な『営業スマイル』の時とは全く違う、今までで一番暗く、熱を帯びた色をしていた。純粋な知的好奇心と、倫理のタガが外れた者特有の不気味な光。
「もしよろしければ……私を先生の『助手』として、雇ってみませんか?」
個室に、しんと冷たい沈黙が落ちた。
深雪は表情を一切変えず、ただ氷のように冷たい視線で進藤を見つめ返した。互いの呼吸の音さえ聞こえそうな数秒の間。
やがて、進藤がふっと目を伏せて沈黙を破った。
「……なんて。冗談ですよ」
顔を上げた進藤には、再び華やかな営業マネージャーの笑顔が貼り付いていた。
「失礼いたしました。流石の私も、美味しいお酒に少し酔ってしまったようです。今のは忘れてください」
*
「本日はありがとうございました。また後日、改めてご連絡させていただきます」
店を出て、スマートに手配されたタクシーのドアが閉まる。
綺麗に頭を下げる進藤の姿が、夜の街のネオンの中に遠ざかっていく。
後部座席に深く体を沈め、深雪は流れる夜景を窓越しに見つめながら一人思案した。
(……鋭い女ね。今日の会話の節々で、巧妙に探りを入れてきていたわ)
あの目。彼女は間違いなく、直感で感じ取っているのだ。深雪が表の臨床報告には決して出せない、何か『裏』の研究をしているということを。
「……本当に、とんでもない劇薬を見つけてしまったかもしれないわね」
誰に聞かせるでもないその呟きは、少しだけ楽しげな響きを帯びて、夜の車内に溶けていった。
進藤玲
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」
誰に聞かせるでもないその呟きは、少しだけ楽しげな響きを帯びて、夜の車内に溶けていった。




