第128話 酔い冷ましの仮説
先ほどの静かな探り合いの空気を洗い流すかのように、絶妙なタイミングで個室の引き戸が開き、大将の手による美しい握りが運ばれてきた。
美しく飾り包丁の入ったイカ、すだちと塩でいただく白身、そして艶やかな赤身から美しいグラデーションを描くマグロの三貫。
「……美味しい。特にこのマグロ、絶品ね。脂の甘みが上品で、舌の上でスッと溶けていくみたい」
「お口に合って良かったです。ここの大将のマグロは、仕入れから寝かせる期間まで相当こだわっているそうで。私も、ここぞという時の接待には必ずこのお店を使わせてもらっているんです」
絶品のお寿司と、医療業界の他愛のない世間話。
明日は完全なオフだという解放感と、ここ数日の神経を削るような研究の疲労も相まって、深雪の冷酒を煽るペースはいつもより明らかに早かった。
それに合わせて進藤もスイスイとグラスを空けていくが、彼女の顔色は最初から全く変わっていない。
「進藤さん、お酒……随分とお強いのね。私とペースを合わせているのに、全然変わらないじゃない」
「ええ、まあそこそこには。アメリカにいた頃、研究所の連中と随分と鍛えられましたから」
進藤は涼しい顔で冷酒を口に含むと、ふと深雪の顔を真っ直ぐに見つめ、面白そうに目を細めた。
「……女医乃先生。少し、ほんのりされていますね?」
深雪は冷たいグラスの結露に指を這わせながら、隠すこともせずにふっと小さく息をついた。
「ええ。なんだか久々に、少し酔ったみたいだわ」
いつもなら絶対に崩さない、冷徹で完璧な外科医の仮面。それが美味しいお酒の力で、ほんの僅かに緩んでいる。
進藤はそれを見ると、顔に完璧で華やかな『営業スマイル』を浮かべた。
「ふふっ。普段は隙のない女医乃先生の、そんな貴重なほろ酔い姿を拝見できるなんて。……本日は営業冥利に尽きますよ。とても光栄です」
「……そういえば先生。今回の商談にあたり、女医乃先生が過去に執筆された臨床レポートをいくつか拝見させていただいたんです」
進藤が、手元の冷酒のグラスを弄りながらふと切り出した。
「数年前に発表された『頸部腫瘍の摘出術』。あの入り組んだ神経叢から、後遺症を残さずに腫瘍だけを分離する手技……本当に素晴らしいですね。非常に感銘を受けました」
「……そうかしら。ありがとう」
深雪は薄く微笑みながらも、内心で呆れたように冷たい息を吐いた。
(……よくある手口ね。営業が商談相手の論文の『要約』だけを斜め読みして、付け焼き刃の知識でおだててくる。せっかくいいお酒が入っていたのに、興ざめだわ)
適当に相槌を打ち、話を流そうとした深雪に対し、進藤は声のトーンをスッと落として言葉を継いだ。
「ただ、巻末に添付されていた術中の『バイタルと脳波の推移データ』を見て、一つ気がついたんです」
「……」
「先生、あの手術……実はセオリー通りの『完全な神経ブロック』をしていませんよね? ほんの数パーセントだけ、あえて患者の感覚伝達を残している。メスを入れた際の患者の『無意識の微細な反射』を利用して、目視できない腫瘍と神経の境界線をマッピングしていた……違いますか?」
深雪は、少しだけ目を細めた。
論文の本文には一切書いていない、データ(数字)の不自然な挙動。そこから術者の隠された意図を読み解くなど、付け焼き刃の営業にできる芸当ではない。
「……よく知っているわね」
「ええ。ですが、あの術式も本当に素晴らしいですが……もう一つ、別の症例についても気になったことがありまして」
進藤は、決して『営業スマイル』を崩さずに、さらに踏み込んできた。
「『重度の脊髄損傷』のレポートです。損傷部を直接繋ごうとする現在のアプローチも素晴らしいですが……もし、損傷箇所を直接いじるのではなく、硬膜外から特定の周波数でパルスを流して、脳に『神経はまだ繋がっている』と錯覚させたまま、末梢神経の自己修復を強制的に促すアプローチ。……ああいった手法は、今の臨床ではまだ難しいのでしょうか?」
その瞬間、深雪の冷酒のグラスを口に運ぼうとした手がピタリと止まった。
端麗な眉が微かにピクリと動く。
それは、深雪自身もかつて思考実験の果てに辿り着き、そして「脳を完全に騙し切る周波数のパラメータなど、人間の計算能力では導き出せない」と判断して、自身の脳内の奥底に封印したはずのアプローチだった。
普通の外科医なら、そもそも発想すらしない次元の理論。
どうして目の前のこの女が、自分が辿り着いたのと同じ結論を、さも世間話の延長のように口にできるのか。
深雪はグラスをゆっくりとテーブルに置き、鋭く冷たい視線で進藤を真っ直ぐに射抜いた。
「……あなた、ただの営業じゃないわね」
その言葉を受け、進藤は心底楽しそうに、少しだけ悪びれた笑みをこぼした。
「ふふっ……申し訳ありません。どうやら、少し踏み込みすぎたようです」
進藤は悪びれながらも、その瞳には理系特有の鋭い知性の光を宿していた。
「実を言うと私、ただの営業マネージャーというわけではないんです。元々はアメリカで神経科学(脳科学)の研究をしていまして。あのチェアのAIに組み込むための『人間がどう拘束されれば、どう神経が反応するか』という生体パラメータを監修した……いわば『生体アドバイザー』が、私の社内での本当の役目なんですよ」




