第127話 余白のある会話
金曜日の午後十九時半。
大学病院での全ての業務と、特別研究室でのデータ整理を終えた深雪は、涼しげな薄手のブラウスに身を包み、夜の街へと足を踏み出した。
明日の土曜日は、珍しく予定が全く入っていない完全なオフだ。ここ最近は深夜まで『触手毒』の解析やプロトコルの構築に没頭し、張り詰めた神経を酷使し続けてきた。今夜くらいは、少しばかりアルコールを入れて、脳の回転を休ませるのも悪くない。
少し熱気を帯びた夏の夜風が心地よく火照った頭を撫でる中、深雪はタクシーではなくあえて電車に乗り、病院から二駅ほど離れた繁華街へと向かった。
A社の進藤玲から指定されたのは、大通りの喧騒から少し外れた路地裏にひっそりと佇む、隠れ家的な高級寿司店だった。
暖簾をくぐり、白木の香りが漂う打ち水された石畳を進む。予約名を告げると、着物姿の女将が「お連れ様はすでにお待ちです」と、奥のしつらえの良い個室へと案内してくれた。
引き戸が開くと、そこにはすでに進藤の姿があった。
「こんばんは、女医乃先生。本日はお忙しい中、ありがとうございます」
「こんばんは。お待たせしてしまったかしら」
「いえいえ、私も今着いたばかりですから。さあ、どうぞ」
向かい合わせの座席に腰を下ろす。
薄着の私服姿で現れた深雪に対し、進藤は一昨日と変わらず、体にフィットした上質なサマーウールのパンツスーツを隙なく着こなしていた。座っていても分かる、身長一七〇センチほどのすらりとした長身。細身でありながらも女性らしい豊かなボリューム感があり、少し西洋の血を感じさせる端正で美しい顔立ちには、明るく華やかな『営業スマイル』が完璧に貼り付けられている。
「明日はお休みだと伺いましたので。今夜はゆっくりと、美味しいお料理とお酒を楽しんでいただければと」
「ええ、ありがとう。久しぶりのお酒だから、少し楽しみだわ」
「それは良かったです! では、まずはビールで喉を潤しましょうか」
運ばれてきた薄張りのグラスを合わせ、微かな音を立てる。
よく冷えたビールを一口煽ると、細やかな炭酸とホップの心地よい苦味が、深雪の疲れた脳細胞にふわりとした弛緩をもたらした。
ほどなくして、彩り豊かな季節の前菜と、氷の器に美しく盛られたお造りが運ばれてくる。二人はそれを上品に口へ運びながら、まずは『表向きの顔』として、当たり障りのない会話を交わし始めた。
「それにしても、久慈助教授の決裁の早さには本社も驚いていましたよ。おかげで、日本での貴重な導入第一号となりました。先生が上手くお口添えしてくださったおかげですね」
「私は背中を押しただけよ。久慈助教授も、あのチェアの『安全性』を大層お気に召していたから」
「ふふっ、それは営業冥利に尽きます。これからも、手厚くサポートさせていただきますね」
進藤は明るく笑いながら、深雪のグラスの空き具合を絶妙なタイミングで気遣う。
有能な外科医と、気配りの行き届いた優秀な営業マネージャー。
個室の中は、美味しい料理と酒を楽しむ、極めて真っ当で和やかな空気に包まれていた。
グラスのビールが空になった頃合いで、進藤が「少し暑いですね。上着を失礼します」と立ち上がり、ジャケットを脱いで壁のハンガーに掛けた。
下から現れたのは、ボディラインに沿うノースリーブのタイトなブラウスだった。
目の前に座り直した進藤を、深雪は静かに観察した。身長一七〇センチという長身の骨格に、無駄のない筋肉と女性らしいボリューム感が同居した均整の取れたプロポーション。少し西洋の血を感じさせる端正な顔立ちと、そこに連なる首筋から腕にかけての、透き通るように綺麗な肌。
ただの営業にしては、随分と目を引く見事な造形だった。
深雪の視線など気にする素振りも見せず、進藤は手元のメニューを開いて口を開いた。
「私は次、冷酒をいただこうかと思いますが……女医乃先生はいかがなさいますか?」
接待する側でありながら、物怖じせずに自己主張をしてくる。その堂々とした態度に深雪は薄く微笑んだ。
「ええ。じゃあ、私も同じものを」
運ばれてきた冷酒の切子グラスを合わせ、再び微かな音を立てる。
一口含んだ酒は冷たく透き通るような辛口で、喉の奥を心地よく焼いた。
グラスをテーブルに置いたタイミングで、深雪はふと声のトーンを落とした。
「それにしても……A社は元々、医療機器が本流のメーカーではないわよね?」
「……と言いますと?」
「あのチェアの異常なホールド感、無意識の抵抗ベクトルを瞬時に計算して空圧で相殺する技術。宇宙開発や防衛産業、あるいは重犯罪者を傷つけずに無力化する刑務所の拘束システム……あの技術は、そういった分野からの転用でしょう?」
その言葉を受けた瞬間、進藤の顔から華やかな『営業スマイル』がスッと消え去った。
代わりに現れたのは、ひどく冷たく鋭い視線だった。進藤は冷酒のグラスをゆっくりと傾け、深雪を真っ直ぐに見つめ返す。
「……流石、よくお調べになっていますね。ええ、ベースとなるハードウェア技術のルーツは仰る通りです」
進藤は涼しい顔で事実を認め、グラスを置いて言葉を継ぐ。
「ですが、患者の抵抗ベクトルを先読みして、一切の苦痛を与えずに最大展開でロックするあのAIアルゴリズム。あれは紛れもなく、我が社の『医療部門の技術』ですよ。あくまで、患者様の安全を守るためのものですから」
深雪の探りに対して、進藤はさらりとかわして見せた。そして今度は、攻守を入れ替えるように世間話のトーンで口を開く。
「そういえば先生、昨日はデモでご自身に体験していただきましたが、実際のホールド感はいかがでしたか?」
「そうね。デモでやった『最大拘束モード』は、一般の臨床では流石に過剰かもしれないわね。身動き一つ取れなかったし。でも、後で自分で『ノーマルモード』の圧も試してみたけれど……一般の処置ならあれで十分ね。あのソフトな密着感は、患者にストレスを与えない最適解だと思うわ」
深雪は、あくまで常識的で真っ当な外科医としての評価を口にする。
「ですよね」
進藤は小さく笑いながら同意した。
「我が社の悪い癖なんですよ。とにかく『これだけ絶対的な拘束ができる』って、過剰な機能を技術力として見せつけたがるんです。……まあ確かに、アレは我が社の技術でなければ実現不可能なレベルの拘束力なんですが」
そこまで言ったところで、進藤は少しだけ声を潜めた。
「……実はアメリカで、あの『最大拘束モード』を悪用した不正医療行為がありまして。密室で、患者を完全に縛り上げて……。結局、その患者が重度の精神疾患を抱えていたせいで『患者の妄想だ』とうやむやにされて終わったんですが……」
進藤は冷酒のグラスを指先で弄りながら、深雪の目をじっと見つめて微笑んだ。
「あの逃げ場のない拘束力を知っていると……あり得る話ですよね?」
深雪は表情一つ変えず、冷酒のグラスを上品に傾けた。
「ええ、恐ろしい話ね。倫理のない医者が持てば、凶器になり得るわ」
進藤は鋭い眼光をわずかに残しつつも、顔にはスッと完璧で華やかな営業スマイルを取り戻した。
「……ふふっ、そうですね。失礼いたしました、せっかくの美味しいお酒の席で、クライアント様にするようなお話ではありませんでした。どうか忘れてください」
進藤は何事もなかったかのようににこやかに笑い、深雪のグラスに冷酒を注ぎ足した。




