第126話 チェアの試運転と、誘い
データの分析を終えた深雪はPCのモニターから視線を外し、部屋の中央に鎮座する『スマート空圧式処置チェア』へと歩み寄った。
艶消しのベーシックホワイトで統一されたその機材は、電源が落ちている状態ではただの美しく巨大なオブジェに過ぎない。
深雪は手元にタブレットを持ったまま、自らそのシートへと腰を下ろした。
まずは、一切の拘束が作動していない『通常の座り心地』。
生体適合性エラストマーで覆われたシートは、冷たさを全く感じさせず、人肌のようなしっとりとした柔らかさで深雪の身体を包み込んだ。人間工学に基づいた流線型のフォルムは体重を完璧に分散させ、最高級のリクライニングソファと遜色ない、極めて快適な座り心地だった。
「……ええ。機材そのもののベースが優れているからこそ、患者も無駄な力みを抜いて身を預けることができる」
深雪は静かに呟きながら、タブレットの画面を操作してチェアを起動させた。
まずは一般的な処置を想定した『安定拘束モード』への移行。プシュッ……という排気音とともに手首、足首、腰回りの空圧パッドが膨らみ、深雪の身体に密着した。
注射などの際に不意に動いてしまうのを防ぐための「軽く抑える感覚」。少し力を込めれば身体をよじることもできる程度の、医療現場としては極めてスタンダードなホールド感だ。
「この程度の拘束であれば、どんな患者でも『医療保護の範囲内』としてすんなりと受け入れるでしょうね」
正当なアプローチを自らの身体で確かめ、深雪は満足げに頷いた。
――そして、次だ。
深雪の細い指先がタブレットのパネルをスワイプし、AIによる『最大拘束・術者側ポジショニング』のテストへと移行する。
まずは、チェア全体のリフトアップ機能だ。
ウィーン、という極めて静かなモーター音と共に、深雪を乗せた巨体が油圧式で滑らかに上昇を始める。床上およそ一メートル。術者が立ったままでも最も処置がしやすい、ちょうど胸の高さあたりまで深雪の骨盤が持ち上げられた。
見晴らしが良くなった分、足のつかない空中に浮かされているという圧倒的な無防備さが際立つ。
同時に座面全体が前へとスライドし、深雪の腰をシートの最も手前へと強制的にせり出させ、空圧パッドが一気に膨張してみっちりと身体をロックした。
続いて、『開脚』の限界値テストだ。
深雪は手動のスライダーで『連続拡張』の動作を確認する。
高く持ち上げられたエッジの先端で、自動で持ち上がった両足が左右へとゆっくりと大きく開かれていく。股関節が限界まで広がり、内腿の筋肉が張り詰める。「これ以上開くと痛みを感じる」という限界の一歩手前――。
そこで不意に、タブレットから「ピピッ」と微かな電子音が鳴り、レッグレストの開きがピタリと停止した。
画面には、【筋緊張および関節可動域の限界を検知。無苦痛の最大展開域にて、安全ロック(セーフティ)を作動します】というアラートが表示されている。深雪がさらにスライダーを操作しようとしても、AIが患者の肉体を守るため、それ以上の可動を一切受け付けない。
深雪は空中に大股開きで固定されたまま、恍惚とした冷たい笑みを浮かべた。
「……素晴らしいわ。患者の関節や筋肉の緊張をリアルタイムで読み取り、本人が『苦痛』を感じる手前の、最も無防備な限界点で正確にロックをかけるのね」
普通なら「なんと安全で優秀な機械か」と感心する場面だ。しかし、深雪の解釈は違った。
「患者に物理的な『痛み』を与えてしまえば、それはストレス値のノイズとなって正確な生体データが取れなくなる。けれどこれなら、術者が力加減を気にせずとも、AIが勝手に『苦痛を与えない、かつ最大の露出状態』を維持してくれる……。肉体的なダメージがゼロだからこそ、純粋な精神的負荷だけを効率よく抽出できるというわけね」
さらに深雪は、拘束された状態のまま、わざと大きく深呼吸をし、手首をひねって抵抗する素振りを見せた。
すると、深呼吸で胸や腹が膨らんだ瞬間に、AIがそれを検知して空圧パッドの空気をミリ秒単位でわずかに抜き、息苦しさを与えないように自動調整した。そして息を吐くと同時に、再び一切の隙間なくみっちりとホールドし直す。
手首の抵抗に対しても同じだ。動かそうとするベクトルに合わせてパッド内の空気が滑らかに移動し、決して痛みを与えないまま、「絶対に逆らえない高密度の泥」のようにまとわりついて動きを封じ込めてくる。
「……なるほど。患者が呼吸で膨らめば緩み、よじって逃げようとすればその隙間を即座に埋める。まるで生き物ね。これなら、患者がどれだけパニックになって暴れても文字通り『暖簾に腕押し』。体力を削られるだけで、絶対に抜け出せない」
どんな患者に対しても、決して怪我をさせず、痛みも与えず、ただ真綿で首を絞めるように絶対的な無力感だけを刷り込んでいく。
最新鋭の医療機器だからこそ実現した、一切のボロが出ない冷酷なまでの制御機能。
すべての動作確認を終え、深雪はタブレットの解除ボタンをタップした。
プシュゥゥゥ……という排気音と共に空圧パッドが収縮し、座面とレッグレストが元のなだらかなフォルムへと戻っていく。
自由になった身体を起こし、深雪は愛おしそうにチェアのアームレストを撫でた。
これで、すべての準備は整ったのだ。
* * *
完璧な仕上がりに満足して帰宅した、翌日の午前。
特別研究室の自席についた深雪は、モーニングコーヒーを口に運びながらPCのメールソフトを開いていた。
未読の一覧の中に、『A社・進藤』の文字を見つける。昨日の十三時、あの『スマート空圧式処置チェア』を納入しに来た、隙のないパンツスーツの女性マネージャーだ。
メールを開くと、昨日の納入に対する丁寧な礼と、初期動作への気遣い、そして『つきましては、改めてご挨拶も兼ねてぜひ一席設けさせていただけないでしょうか』という接待の誘いが綴られていた。
深雪はマウスのホイールを転がしながら、ふっと小さく息を吐いた。
権威ある大学の研究室ともなれば、医療機器メーカーからのこの手の誘いは日常茶飯事だ。普段であれば、「面倒な愛想笑いは助教授の仕事よ」と、すべて久慈に丸投げしてしまうところだ。
今回も適当な理由をつけて彼女に行かせようか。
そう思いキーボードに手を伸ばしかけた時、深雪の脳裏に昨日の進藤の顔がふと蘇った。
――進藤玲。
彼女が浮かべていたのは、非の打ち所がない完璧な営業スマイルだった。しかし深雪は、その愛想の良い笑顔の奥に、一瞬だけ鋭い眼光が光るのを見逃してはいなかった。
あの最新鋭の機材を扱う『A社』そのものへの興味もあるが、深雪は、進藤という女性自身にも少しばかり関心があった。
「……たまには、私が直接相手をするのも悪くないわね」
深雪は独り言のように静かに呟くと、久慈へ転送する手を止め、そのまま進藤への返信画面を開いた。
無駄な装飾は省き、あくまで大学の研究者としてスマートな文面を手早く打ち込んでいく。
『お世話になっております。特別研究室の深雪です。
昨日は迅速な機材の納入、誠にありがとうございました。初期動作の確認も滞りなく完了し、非常に優れた機材であると実感しております。
さて、ご提案いただきましたお食事の件、お受けいたします。
A社の持つ技術や今後の展望についても、少しお話を伺えればと思っております。
つきましては、そちらのご都合の良い日程をいくつかご提示いただけますでしょうか。場所等につきましても、進藤様にお任せいたします。』
最後に署名を付け加え、深雪は送信ボタンを迷いなくクリックした。
そのまま手にしていたコーヒーカップを口元へ運び、冷めかけたブラックコーヒーを一口飲み下した――直後。
PCから『ピコン』と、新着メールを知らせる通知音が鳴った。
「……随分と仕事が早いわね」
送信から五分も経っていない。
深雪が画面に視線を戻すと、そこには進藤からの返信がすでに届いていた。
『深雪様
早速のご返信、誠にありがとうございます。
お忙しい中お時間をいただけますこと、大変光栄に存じます。
直近で恐縮ですが、以下の日程にて深雪様のご都合はいかがでしょうか。
(いくつか直近の日程候補が記載されている)
また、お店の手配にあたりまして、深雪様のお食事のお好み(和食、フレンチ等)や、アレルギー、お苦手な食材などがございましたら、ぜひお気兼ねなくお申し付けくださいませ。』
ただ早いだけでなく、文面には一ミリの隙もない。こちらの丸投げに対しても、即座に日程候補を提示し、食事の趣向まで丁寧に伺ってくる完璧な営業ムーブだ。
深雪は画面を見つめながら、少しだけ面白そうに唇の端を吊り上げた。
とはいえ、食事の好みと言われても、深雪は自身の食に対してはひどく無頓着だった。普段は研究室にこもりきりで適当なものを口に放り込むか、たまに久慈に誘われてそれなりに値の張る店へ行く程度だ。
進藤のメールを眺めながら、深雪は少しだけ天井を見上げた。
「……そういえば、お寿司なんてしばらく食べていなかったわね」
極めて日常的で、あっさりとした理由だった。
深雪はキーボードに手を伸ばし、進藤が提示した日程の中から明後日の金曜日の夜を指定するとともに、短い文面を打ち込んだ。
『日程は明後日の二十時でお願いいたします。
食事についてですが、特にアレルギー等はございません。
たまには美味しい和食、お寿司などが食べたい気分ですので、その方向で手配をお願いできますでしょうか。』
送信ボタンを押し、深雪は残りのコーヒーを一気に飲み干した。
あの隙のない営業マネージャーが、明後日の夜、どんな店を用意してどのような話を持ちかけてくるのか。
深雪は、久しぶりに訪れた「研究以外の退屈しのぎ」に、僅かな期待感を抱きながら再びPCのデータ分析画面へと向き直った。




