第122話 完璧な檻 計算された挨拶
三日後、金曜日の午後。
薄暗かった深雪の特別研究室に、いよいよ『それ』が搬入された。
アメリカA社製『スマート空圧式処置チェア』。
一見すると、艶消しのベーシックホワイトで統一された、継ぎ目のない流線型のモノコック(一体型)ソファのようにも見える。患者の肌に触れる表面は、人工皮膚や高級カテーテルにも使われる『生体適合性エラストマー』で覆われており、人肌のようにしっとりとした温かみがあった。しかし、その柔らかな感触のすぐ下には、航空機レベルの強靭なチタン合金とカーボンファイバーで構成された『絶対に変形しない外骨格』が隠されていることを、深雪は事前に取り寄せたデータからすでに把握していた。
午後一時。
予定通り、A社の日本支社から派遣された二名の担当者が研究室を訪れた。
一人は、アメリカ本社から派遣された恰幅の良い技術エンジニア、デビッド。
そしてもう一人は、体にフィットしたパンツスーツを隙なく着こなす、三十歳前後の美しい日本人女性だった。
「初めまして。A社日本支社でセールスマネージャーを担当しております、進藤玲と申します。本日は弊社の最新機材をご導入いただき、誠にありがとうございます」
進藤は、決裁者である久慈助教授へ淀みなく名刺を渡すと、次に深雪の方へと向き直り、ふと知的な双眸を細めた。
「貴女が、女医乃深雪先生ですね」
「ええ。本日はご足労いただきありがとうございます、進藤さん」
「とんでもありません。女医乃先生が若くして数々の難解なデータ解析をこなし、画期的なアプローチをされていることは、医療機器界隈でもかねがね噂に伺っておりました。……今後とも、ぜひ懇意にさせていただければと存じます」
ただの社交辞令ではない、優秀な研究者を自分たちの顧客として取り込もうとする、野心と計算が透ける冷たい微笑み。深雪もまた、一切の感情を交えない完璧な笑みでその挨拶に応じた。
「光栄です。私も、A社の技術力には大いに期待していますので」
「ありがとうございます。では早速、本機の心臓部である『AIによる自動圧力制御』について、技術のデビッドからご説明いたします」
進藤から促され、デビッドがタブレットを操作しながら流暢な日本語で解説を始めた。
「コノ機材ノ最大ノ特徴ハ、患者様ヲ『物理的ナ力デ押サエツケル』ノデハナク、『隙間ヲ完全ニ埋メルコトデホールドスル』点ニアリマス。本来ハ、パニック障害ナドデ暴レル患者様ヲ、一切ノ怪我ヲサセズニ安全ニ拘束スルタメノシステムデス」
「隙間を埋める、とは具体的に?」
腕を組んで聞いていた久慈が尋ねる。
「患者様ガ着座シ、ロックを作動サセルト、各所ノパッドニ空気ガ送リ込マレマス。ソノ際、内蔵センサーガ体型ヤ筋肉ノ緊張状態ヲリアルタイムデスキャンシ、AIガ空圧ヲミリ単位デ自動調整シマス。モシ患者様ガ急ニ暴レテモ、AIガソノ動キヲ瞬時ニ計算シ、空圧デ相殺シマス。……ツマリ、痛ミヤ息苦シサヲ与エルコトナク、『絶対ニ逃ゲラレナイ状態』ヲ作リ出セルノデス」
デビッドの解説に、久慈は「なるほどねぇ」と感心したようにため息をついた。
「従来の革ベルトだと、暴れた時に皮膚が擦れたり鬱血したりするリスクがあったけれど。これなら柔らかい空気のクッションで包み込むだけだから、身体へのダメージはゼロというわけね」
「おっしゃる通りです、久慈助教授」
進藤がタブレットを受け取りながら、滑らかな営業スマイルで引き取った。
「本機は、患者様への負担を極限まで減らす次世代の安全基準です。……そこでご提案なのですが」
進藤はスッと視線を深雪へと向けた。
「実際にこの機材を運用し、データを採取されるのは女医乃先生かと存じます。よろしければ、先生ご自身の身体で、この『AIのホールド感』と独自のポジショニング機構をご体感いただけないでしょうか?」
「……私が、ですか?」
「はい。患者様がどのように感じるかを術者自身が知っておくことは、今後のスムーズな治験において非常に有益かと存じます」
有無を言わさぬ、しかし極めて合理的な提案だった。
深雪は一瞬だけ目を伏せ、そして優雅に頷いた。
「ええ、おっしゃる通りですね。では、お言葉に甘えて」
白衣の裾を払い、深雪は自らが用意した『完璧な檻』へと静かに腰を下ろした。
ベーシックホワイトのエラストマーシートは、最高級の低反発ソファのように柔らかく深雪の身体を包み込む。冷たさや硬さを一切感じさせないその感触は、患者に拘束具という警戒心を微塵も抱かせないだろう。
「まずは、術者側の利便性を確保するためのポジショニングへ移行します」
進藤が手元の操作パネルをタップすると、医療用超音波モーターの極めて静かな駆動音が響いた。
各モジュールが独立して動く『マルチアクシス(多軸)スライド機構』が作動し、チェアの背もたれが水平に近く倒れる。それと完全に独立して、お尻を乗せている座面全体がレールの上を前へと滑らかにスライドした。
「……」
深雪の身体は背もたれに押される形となり、シートの最も手前のフチ(エッジ)ギリギリまで、骨盤を強制的に押し出される。さらに『ペルビック・チルト(骨盤の仰角調整)』機能により、座面の前方部分がわずかに上向きに持ち上がり、術者側へ向かって完全に腰を突き出される形となった。
「このように、処置を行う医師が最も観察・作業しやすい角度と位置へ、患者の骨盤を自動で誘導します」
「……ええ。視界も良好ですし、無理な姿勢をとらずにアプローチできそうですね」
深雪は冷静に評価を下す。次回の治験において、彼女は篠原の絶対上限のデータを特等席で観測し、適切なタイミングでフィルター薬を投与しなければならない。この絶妙な露出と角度は、術者にとって非常に都合が良かった。
「では、実際に『AIのホールド』を起動します」
進藤がパネルを操作した瞬間。
プシュッ、という低い排気音とともに、手首、足首、そして骨盤から太ももを覆う特殊ポリウレタンのパッドが一斉に膨張した。
「……っ」
深雪はわずかに息を呑んだ。
鉄の枷のような痛みや冷たさは一切ない。だが、まるで高密度の泥に沈み込んだように、身体のあらゆる隙間がみっちりと埋め尽くされ、完全に自由が奪われる。
深雪は試しに、少しだけ後ろへ腰を引こうと骨盤に力を入れてみた。しかし、その動き(ベクトル)を内蔵センサーが瞬時に感知し、腰回りのパッドの圧力がリアルタイムで変化する。柔らかなエラストマー素材の下にあるチタン合金のフレームが強固な壁となっているため、空気圧の逃げ場はなく、その力はすべて深雪の身体を抑え込む万力へと変換される。
結果、一番手前のエッジに押し出された状態のまま、腰から下がコンクリートで固められたように一ミリも動かすことができなかった。
(……見事ね。お尻の下にしっかりとした座面があるのに、パッドがくさびになって後ろへ逃げることができない。これなら、患者がどれほど無意識に腰をよじろうとしても、完全に無力化できる)
「いかがですか、女医乃先生」
進藤が、機能の優秀さを誇示するように微笑みかける。
「患者様が暴れたり、無意識に抵抗しようとしたりしても、AIがその圧力を先読みして相殺します。柔らかく包み込みながら、決して逃がしません」
「ええ……本当に、素晴らしいホールド感です。これほど安全な拘束は初めてですね」
感嘆の声を漏らしながら、深雪はさらに意地悪く、今度は「両腿をぴったりと閉じる」ように内股へ力を込めてみた。
しかし、太ももの内側に密着したパッドがその圧力を感知して即座に膨らみ、深雪の両足はどう足掻いても『軽く開かされた状態』からピタリと動かなくなった。
(足を閉じて身を守ることすら許されない……。しかも、一番重要な『処置のスペース(股間周り)』には、私が何の障害もなくアクセスできるようにぽっかりと空間が確保されている。……まさに、完璧な設計だわ)
内心の評価を完璧なポーカーフェイスで隠し通す深雪に、進藤がさらなる機能を提示した。
「本機は、患者様の処置内容に合わせて、足の角度や開脚の度合いもパネルから自由に調整可能です。……女医乃先生、そちらも実際にお試しになられますか?」
「そうですね。今後の治験のシミュレーションとして、ぜひお願いします」
深雪が頷くと、進藤は滑らかな指先でタブレットの数値をスライドさせた。
ウィーン、という駆動音とともに、深雪の足をホールドしていたレッグレストが膝を曲げる軌道を描きながら、左右へとゆっくりと開かれていく。
それはまさに、婦人科の診察台で最も無防備な姿勢を取らされるのと同じ軌道だった。エッジに固定されている深雪には、その動きに逆らう術は一切ない。
最終的に、深雪の身体は『シートの端に腰を突き出され、一歩も後ろへ逃げられないまま、両足を大きく広げられた状態』でロックされた。
「……なるほど。これなら、下半身への局所的な処置が必要な場合でも、患者の抵抗を一切気にすることなく、スムーズにアプローチできますね」
「はい。多くの医師の方から、非常に高い評価をいただいている機能です」
進藤の営業スマイルと、傍らで「本当に便利ねぇ」と呑気に感心している久慈。
その二人の前で無防備な姿勢を晒しながらも、深雪の表情はあくまで冷静な担当医のそれだった。
しかし、その冷徹な瞳の奥底には、自らが用意した『完璧な治療環境(檻)』が予想以上の完成度であったことに対する、静かで深い満足感が満ちていた。
「――では、拘束を解除します」
進藤がタブレットのロック解除ボタンをタップすると、プシュゥゥ……という長い排気音とともに、深雪の四肢と骨盤をみっちりと覆っていた空圧パッドが瞬時に収縮した。
同時にレッグレストが静かに閉じられ、座面が元の位置へと滑らかに後退していく。エッジへと強制的に押し出されていた深雪の身体は、再びベーシックホワイトの広く柔らかなシートの奥へと引き戻された。
完全に自由を取り戻した深雪は、そのまま流れるような動作で立ち上がった。
先ほどまで、座面の端で完全に無防備な開脚姿勢を強要されていたというのに、彼女の表情には微塵の羞恥も、動揺すらも浮かんでいない。
深雪は涼しい顔で白衣のシワを優雅に撫でつけると、進藤へ向かって完璧な笑みを向けた。
「素晴らしい体験でした。これなら、どんな患者も『安全に』処置できますね」
「あ……はい。ご体感いただき、ありがとうございます」
進藤は一瞬、言葉に詰まった。
これまで数多くの医師にデモンストレーションを行ってきたが、自ら拘束を体験してここまで平然としている者は初めてだった。普通の人間なら、温かく柔らかいシートのまま絶対的な拘束力でエッジへと追いやられ、1ミリの逃げ場すら奪われるという生々しいホールド感に少なからず恐怖を覚えたり、解放された直後に安堵の息を漏らしたりするものだ。
(この女医乃という先生……ただ者ではないわね)
進藤は内心で密かに戦慄しながらも、有能な営業スマイルを崩さずに一礼した。
その後、機材の初期設定とメンテナンス方法の引き継ぎを終えた一行は、研究室に隣接する応接室へと場所を移した。
テーブルを挟んで向かい合い、進藤がスマートな手つきで新しいカタログを広げる。
「本日は誠にありがとうございました。最後に少しだけ、弊社の他製品をご紹介させてください。実は現在、先ほどのAIチェアと連動する『ウェアラブル型の神経伝達モニタリングデバイス』を開発中でして」
「神経伝達のモニタリング、ですか」
深雪が静かに反応を示す。
「はい。患者様のこめかみや首筋に装着するだけで、脳波や神経への負荷をリアルタイムで数値化し、チェアの空圧制御にフィードバックさせるという画期的なシステムです。より精密なデータ解析が可能になります」
「なるほどねぇ……」
カタログを覗き込んだ久慈が、いかにも上司らしい偉そうなトーンで顎を撫でた。
「確かに興味深いけれど、さすがに今期はチェアの導入で予算を使っちゃったからね。追加のデバイスとなると、来期の予算編成次第かしら」
「もちろんでございます。あくまで、今後の研究の片隅に置いていただければ幸いです」
進藤が久慈を持ち上げるように愛想よく微笑む。
その隣で、深雪もまた「ええ、素晴らしい技術ですね」と上品な相槌を打っていた。
だが、彼女の脳内はすでに全く別の計算で埋め尽くされていた。
(……神経伝達のリアルタイム数値化。もしそれが実用化されれば、篠原委員長の『ノイズ』がどれほどの速度と規模で肥大化していくのか、完璧な波形データとして可視化できるわね。……ふふ、A社には今後も良い機材を提供してもらえそうね)
表面上は穏やかな医療従事者としての顔を保ちながら、深雪はまだ見ぬデバイスにまで暗い期待を寄せていた。
やがて予定の時間が過ぎ、業者の二人が帰路につく。
エレベーターホールでの見送り際、進藤は久慈に深く一礼した後、深雪の方へと向き直り、スッと名刺を差し出した。
「女医乃先生。本日はありがとうございました。また何か、データ解析や治験の環境構築等でご協力できることがあれば、ぜひ直接私までご連絡ください」
「ええ、ご丁寧にありがとうございます。進藤さんも、お気をつけて」
深雪が名刺を受け取り、含みのある微笑みを返す。
ビジネスライクな挨拶の裏側で、二人の優秀な女たちの間に、静かで冷たい火花のような共鳴が交差していた。
エレベーターの扉が閉まり、静寂が戻ったホールで。
深雪は手元の名刺に視線を落としながら、密かに冷ややかな唇を歪めた。




