第121話 迫る檻、隠しきれない飢え
二日後の昼下がり。医局の自席で書類に目を通していた深雪のスマートフォンが、控えめなバイブレーションを鳴らした。
画面に表示された発信者は『久慈真理子』。深雪は表情を変えずに通話ボタンをタップし、耳に当てた。
「お疲れ様です、久慈助教授」
『お疲れ様、深雪。今ちょっといいかしら?』
「ええ、構いませんよ。何かありましたか?」
『例の、アメリカA社のスマート空圧式処置チェアの件よ。早速、日本支社に問い合わせてみたの』
電話越しの久慈の声は、自分の有能さを示すように弾んでいた。
『驚いたわ。なんと日本国内の倉庫に、すでにデモ用のストックが数台あるらしいのよ。こちらの都合の良い日取りで、いつでも納入可能だって』
「……それは、思いのほか早いですね」
『ええ。稟議のほうも、私の助教授決裁で一気に通しておいたわ。院長にも「次回の学会発表を見据えた最新鋭の安全装置」と一言添えたら、あっさり了承済みよ』
「ありがとうございます。久慈助教授の迅速なご手配には、いつも頭が下がります」
深雪は、完璧な部下としての穏やかなトーンで謝辞を述べた。
まさか数日であの『物理の檻』が手に入るとは。これなら、篠原の限界値テストのスケジュールも大幅に前倒しできる。
『A社にとっても、日本の大学病院への納入はこれが初めてのケースになるらしくてね。メンテナンスからセットアップまで、それはもう至れり尽くせりの対応を約束してくれたわ。……それでね、納入日のことなんだけど』
久慈が、手元のスケジュール帳を捲るような音をさせながら言葉を継いだ。
『深雪の予定はどう? 三日後、金曜日の午後あたりでセッティングしようと思うんだけど』
「金曜日の午後、ですね。ええ、午前のオペが終わった後ですので問題ありません。立ち会い可能です」
『よかった。じゃあ、その手はずで進めるわね。もちろん、初期稼働のテストには私も責任者として立ち会うつもりよ。どんな使い勝手なのか、この目でしっかり確認しておきたいしね』
その言葉を聞いた瞬間。深雪の冷徹な瞳の奥に、氷のような暗い悦びが過ぎった。
(……ちょうどいいわね。あの人(篠原)を本番で乗せる前に、生きた人間で『AIの自動圧力調整』がどれほど機能するのか、限界テストをしておきたかったところだわ)
自らの口で「立ち会う(様子を見る)」と言いながら、まんまと深雪の手のひらの上でモルモットとしての役割を果たそうとしている上司。
深雪は声のトーンを一切変えることなく、優雅に肯定した。
「ええ、とても心強いです。新しい機材ですので、ぜひ久慈助教授にもその『安全性』をご確認いただければと」
『ええ、任せてちょうだい。それじゃあ、また金曜日に』
通話を切った深雪は、スマートフォンをデスクに置くと、そのまま流れるような動作で手元のノートPCを開いた。
久慈が手配した『檻』は、三日後の金曜日に搬入される。ならば次は、その檻に収まるべき被験者の現状を把握し、治験に向けた最終的なアプローチの判断材料を集めておく必要がある。
深雪はメールソフトを立ち上げ、宛先に「篠原美沙子」のアドレスを選択した。
キーボードを叩く指先は正確で、画面に打ち込まれていく文面は、担当医としての丁寧な気遣いに満ちていた。
『件名:その後のご体調について(女医乃)
篠原委員長、先日の診察はお疲れ様でした。
その後、ご体調はいかがでしょうか。
私の方は現在、先日合意いただいた「絶対上限測定」のための準備を進めているところです。ただ、専用機材の搬入や細かなチューニング、加えて私自身の通常業務の都合もあり、具体的な治験の日程を立てるにはもう少し時間がかかりそうです。
スケジュールが確定するまでの間、現在の篠原委員長の現況をお伺いできればと思い、ご連絡いたしました。
例の『微熱』の具合や、日常生活・お仕事への影響など、どのようなことでも構いません。ありのままの現状を教えていただけますでしょうか。
もしお辛いようであれば、遠慮なくおっしゃってください。
女医乃深雪』
送信ボタンを、迷いなくクリックする。
画面に「送信完了」の文字が表示されたのを見届けると、深雪は静かに息を吐いた。
(……さて、委員長。常人の1.2倍に膨れ上がった神経伝達のノイズに晒されながら、貴女は今、どのような日々を送っているのかしら)
気遣うような文面は、もちろん建前だ。
機材はすでに三日後に手に入るが、あえて「まだ時間がかかる」と伝えることで、現状のノイズに苦しむ彼女の焦燥を測る意図があった。
深雪が知りたいのは、篠原がその『終わらない微熱』の中で、どこまで日常の理性を保てているかという純粋な観察データだった。
同じ頃、学園の委員長室。
分厚いファイルを開き、決裁書類に目を通していた篠原のスマートフォンが、デスクの上で短く振動した。
ペンを置き、画面を確認した篠原は、わずかに眉をひそめる。
「……メール?」
発信元は女医乃深雪。普段、彼女とのやり取りは秘匿性の高い専用のメッセージアプリを使っている。にもかかわらず、わざわざPCアドレスからのメールが届くのは珍しい。
(あの女医乃先生としたことが、珍しいうっかりね。……よほど、研究室でのデータ作業に没頭しているのかしら)
そんなことを思いながら、篠原はメールの本文を開いた。
しかし、そこに書かれている『具体的な治験の日程を立てるにはもう少し時間がかかりそうです』という一文を読んだ瞬間、彼女の背筋に冷たい汗が伝った。
「まだ、待てと言うの……」
誰にも聞こえないような掠れた声が、委員長室に落ちる。
篠原は無意識に、タイトスカート越しの自らの太ももを強く掻き毟るように握りしめた。
先日の診察以降、彼女の脳内を蝕む『常人の一・五倍のノイズ』は、昼夜を問わず彼女の理性を削り続けていた。歩くたびに下着が擦れるわずかな刺激、椅子に座る時の圧迫感。高密度化した神経回路がそれらを「快楽の予兆」として誤変換してしまう。
気を抜けば甘い吐息が漏れそうになるのを、文字通り血の滲むような努力で押さえ込んでいる状態だ。
(早くあの『絶対上限』の波形を取って、この終わらない微熱を消してくれないと……私の理性が保たない)
今すぐにでも「早くして」と急かしたい衝動に駆られる。
だが、ここで理性を捨てて哀願してしまえば、自分の中に残った最後のプライドまで崩れ去ってしまう。
篠原は震える指でフリック入力を起動し、あくまで『学園の委員長』としての毅然とした態度を装って返信を打ち込み始めた。
『件名:Re:その後のご体調について
女医乃先生、ご連絡ありがとうございます。
連日のデータ解析、お疲れ様です。
ご質問の現況についてですが、率直に申し上げて、決して良い状態とは言えません。
例のノイズによる負荷が続いており、長時間のデスクワークや会議など、日常業務に支障が出始めています。
機材のチューニング等で時間を要する事情は承知していますが、これ以上、委員長としての業務に悪影響を及ぼすことは看過できません。
つきましては、当初の想定よりもスケジュールを前倒ししていただくよう要求します。
絶対上限の測定については、先日の通り合意済みです。準備ができ次第、至急ご連絡ください。
追伸:今後、このようなデリケートな内容の連絡は、必ず私用のメッセージアプリ宛にお願いします。
篠原』
何度も推敲し、「助けてほしい」という本音を、業務上の正当な要求というオブラートで包み込んだ文章。
送信ボタンを押した篠原は、深く、熱を帯びたため息をつきながら、広すぎる委員長室でひとり天井を仰いだ。
数分後。医局のノートPCに届いた返信を一読し、深雪は薄い唇に微かな弧を描いた。
あくまで対等以上を保とうとする、毅然とした文面。最後の『私用のアプリにお願いします』という苦言には、彼女の委員長としてのプライドと、公の場にこの秘密を引きずり出されたくないという強い警戒心が表れている。
だが、深雪の冷徹な目には、その行間から滲み出す感情が痛いほど読み取れていた。
『委員長としての業務に支障が出るから』『看過できないから』――そう理屈を並べてはいるが、要するに彼女は、現在の絶え間ないノイズに耐えきれなくなっているのだ。
「……ええ、委員長。強がらなくても、貴女の『飢え』はよく伝わってくるわ」
治療法を確立するための治験を急いでいる、という建前の裏側。そこには間違いなく、「今のこの狂おしい快楽への渇望と苦痛を、早くどうにかしてほしい」という切実な悲鳴が混ざり込んでいた。
「もう少しの辛抱よ。貴女のその飢えを、余すことなく満たして……いいえ、限界まで引き出してあげるから」
誰もいない医局の片隅で、深雪はモニターの光に照らされながら、蜘蛛が獲物を待つような妖艶な笑みを浮かべた。




