第120話 抑制の論理と可能性
夜の深雪研究室。
無機質な空調の音が響く中、女医乃深雪は白衣のままモニターと向き合っていた。
画面には、部屋の奥の培養槽で蠢く『彼ら』――南米由来の患者から摘出された、人間由来の変異組織の成分解析データが羅列されている。
深雪の視線は、数あるデータの中からひとつの特異な分子構造を捉えていた。
「……受容体への、親和性」
独り言のように呟き、キーボードを叩いてその成分のシミュレーションを回す。
この組織は人間の脳細胞をベースにしているため、分泌する成分もまた、人体の免疫系や脳の関門を完全に素通りする。深雪が目をつけたのは、側坐核の受容体――まさに今、篠原美沙子の脳内で常人の1.2倍にまで肥大化し、異常なノイズを拾い続けている部位へ直接付着する性質を持つ『特異なペプチド』だった。
理論上、この成分が受容体に薄い膜のようにへばりつけば、そこに流れ込む過剰な電気信号や快楽物質を物理的に間引くことができるかもしれない。
しかし、シミュレーターが弾き出した結果は、曖昧なものだった。
このフィルターがどの程度の負荷まで持ち堪えられるのか。日常的な「1.2倍の微熱」を綺麗にマスキングできるのか、あるいは全く意味を成さずに素通りさせてしまうのか。既存の医学データと照らし合わせても、明確な答えは出ない。
効果のほどは、全くの未知数。
だが、人間の脳回路と完璧な互換性を持つこの成分は、現状において「最もテストする価値のあるサンプル」であることは間違いなかった。
「……完璧な抑制薬を作るのはまだ難しいけれど。現状の仮説としては十分ね」
深雪はこのペプチドをベースに、テスト用の『フィルター薬』の調合データを保存した。
そして、次回の治験――あの『スマート空圧式処置チェア』と『拡張型多点センサー』を用いた究極の実験のプロトコルに、この薬の投与プロセスを組み込んでいく。
むろん、最初からこの薬を使用するような愚かな真似はしない。
もしフィルターが中途半端に機能してしまえば、本来の目的である『純粋な絶対上限(ピーク値)』の計測データにノイズが混じってしまうからだ。
深雪が構築した冷徹な観測順序はこうだ。
まずは、篠原がすでに同意している通り、一切の邪魔がない状態で彼女の純粋な限界値を測定する。
そして、肥大化した報酬系が極限の負荷に悲鳴を上げ、脳がかつてないバグを引き起こしているその最中に、初めてこの『テスト用フィルター薬』を投与するのだ。
あの圧倒的な快楽の濁流を前にして、この未知の薬がどう作用するのか。ノイズを抑え込めるのか、それとも無惨に決壊するのか――その効果を観測する。
(限界値の測定データと、このフィルターの耐久データ……一度の治験でどちらも採取できるわね)
次回のプロトコル(観測順序)を構築し終えた深雪は、ふと視線をデスクの上の『高密度神経接続パッチ(AS-09)』へと向けた。
次回の絶対上限測定において、このパッチは下半身から発生した莫大な快楽パルスを、頸髄から脳幹(側坐核)へと引き上げる重要な中継点の役割を果たす。
深雪は再びキーボードへ向かい、変異組織の成分解析データから別の分子構造をピックアップした。
それは、人間の組織由来だからこそ持つ、『神経線維の活動電位を安定させ、電気信号の透過性を極限まで高める成分』。
劇薬のように発情を促したり、気絶を防いだりするような強烈な作用はない。ただ純粋に、伝導経路の電気抵抗を下げ、信号をスムーズに直通させるための、いわば『導電特化型のサポート成分』だ。
(……拡張型多点センサー側(下半身)の粘膜抵抗を下げてしまうと、一気に負荷がかかりすぎて、また気絶(強制シャットダウン)のリスクが高まる。けれど、このパッチ側から脊髄の伝導効率だけを最適化しておけば、下から上がってきた快楽パルスは、一滴の減衰もなく脳へ叩き込まれる)
深雪はこの成分を抽出・調合し、パッチの裏面に塗布するための透明な粘着ゲルとして精製した。
次回の治験でこれをうなじに貼れば、篠原の脊髄は一切の抵抗を持たない『完全な超伝導ケーブル』と化す。
下半身を蹂躙する32接点のうねりも、陰核脚へのダイレクトな直撃も、すべてが最高純度のまま彼女の側坐核へと直結するのだ。
「ただのパッチの粘着ゲルです……そう言えば、あの人も疑いようがないわね」
深雪は、完成したゲルを無影灯の光に透かして静かに微笑んだ。
絶対上限のデータを一滴残らず脳へ届けるための『超伝導パッチ』と、その上限でテストするための『未知のフィルター薬』。
二つの化学的アプローチ(調合)にひとまずの目処をつけ、深雪はふと視線をデスクトップの端へ向けた。
デジタル時計の表示は、すでに二十時を回っている。
「もう二十時……。今日はこの辺で帰って休むとしましょうか」
白衣越しに凝り固まった肩を軽く回し、小さく息を吐く。
本音を言えば、このまま徹夜してでも、あの培養槽に眠る成分の『完全なコントロール』を解き明かしたい。だが、いかんせん一人の手では時間が足らなすぎる。
この人間由来の変異組織は、倫理的にも医学的にも、決して表に出せる代物ではない。公式なプロジェクトとして予算や人員を割くことはできず、深雪が日常業務の合間を縫って、たった一人で秘密裏に解析を進めるしかないのだ。
だからこそ、効率的に、一滴の取りこぼしもなく生きた人間から極限のデータを搾り取ってくれる『環境』が必要だった。
すべては次回の治験――あの完璧な物理の檻(空圧チェア)に、篠原が自ら歩み寄ってくる夜に懸かっている。
微かに明滅する培養槽の光だけを背に、深雪は来るべき極限の夜へ向けて、静かに研究室のスイッチを落とした。




