第119話 空圧の鎖
休憩室の空気は穏やかで、コーヒーの香りが漂う日常そのものだった。しかし、二人の間で交わされる会話は、その穏やかさとは裏腹に、深く鋭い刃を含んでいた。
「……そういえば久慈助教授。神経探索用スティミュレーターの件ですが」
深雪は手元のタブレットを操作し、静かに切り出した。
「あれを使い始めてから、術野での神経同定は飛躍的に向上しました。久慈助教授が初期稼働時のテストでご自身で体験された通り、あのペン型デバイスはもはや我々の手足と言ってもいい」
「ええ、本当に。目で見えない神経の走行があれほど明瞭に可視化されるなんて、驚きだったわ。あの高精度なデータがあれば、学会発表の説得力も段違いね」
「ただ、一般患者への応用や学会用のデータ収集を進める上で、医療リスクの効率化を考慮すると、一つだけ懸念があります」
深雪はタブレットの画面を久慈へ向けた。そこには、重厚でありながら流線型のスマートなフォルムを持つ、真新しい医療用チェアが映し出されていた。
「これは?」
「アメリカのA社が開発した、最新の『スマート空圧式処置チェア』です。海外の先進的な医療機関では、すでに神経系の精密処置において導入が進んでいます」
深雪は淀みない口調でプレゼンを続ける。
「ご存知の通り、ペン型デバイスは非常に繊細です。意識下での処置中、患者の不随意運動や痛覚反射による体幹の僅かなビクつきが、コンマ数ミリのズレを生み、致命的な誤認識や医療事故のリスクに繋がる。……そこで、このチェアの出番です」
「空圧式、ということは空気で固定するの?」
「ええ。骨盤や四肢をホールドする幅広のベルト内部が、血圧計のカフのような微細なエアチャンバーになっています。スイッチを入れると空気が送り込まれ、被験体の体型に合わせて隙間なく密着する」
深雪は画面をスクロールさせ、機能の詳細を表示した。
「特筆すべきは、AIによる『最適化フィット管理』機能です。患者が不随意運動を起こしたり、痛みを逃れようと筋肉を隆起させたりすると、内蔵センサーがそれを検知し、AIが瞬時にエアの出入れを行います。つまり、血流阻害や圧迫痛といった『物理的な苦痛』を一切与えないギリギリの圧力を自動で保ちながら、完全な静止状態を維持し続けるんです」
物理的な苦痛がない。それはつまり、患者にとって極めて安全であり、病院側にとっても二次被害のリスクを完璧に排除できるという、非の打ち所がない正論だった。
「安全性と効率性を両立させた、究極の固定システム……。確かに、これならどんな微細なノイズも排除して、完璧なデータが取れるわね」
久慈はタブレットに表示された概算費用を一瞥すると、ふふっと余裕のある笑みを浮かべ、優雅にコーヒーを啜った。
「この程度の機材なら、わざわざ面倒な会議を通さなくても、私がすぐに発注に回せるわ。院長への稟議も適当に処理しておくから、安心して」
「ありがとうございます。久慈助教授の迅速なご決断、いつも本当に助かっております」
深雪は、有能な部下としての完璧な笑みを浮かべ、深く一礼した。
物理的な苦痛がないからこそ、いくら暴れようが、筋肉を隆起させてもがこうが、AIが瞬時に圧力を調整し、永遠に逃げ出せない絶対の拘束。
(これで、あの人の限界値の先を、一滴のノイズもなく抽出できる……)
表向きは『医療リスク回避と技術の向上』という仮面を被ったまま、深雪は内心で、篠原という名の実験体をこの最新鋭の椅子に縛り上げる、未来を思い描いていた。
「……それじゃ、私はこれから教授会の会議があるから行くわね」
チェアの承認手続きを終えた久慈は、壁掛け時計に視線をやって立ち上がった。
「はい。お疲れ様です、久慈助教授」
深雪は立ち上がり、有能な部下としての完璧な笑みを浮かべて見送る。久慈が医局を出ていくと、部屋には再び静寂と、微かなコーヒーの香りだけが残された。
一人になった深雪は、ふうと短く息を吐き、革張りのソファに深く身を沈めた。
日々の業務と、裏で行っている『研究』による疲労の蓄積。次のフェーズに完璧な状態で臨むため、ここで少し頭をクリアにしておく必要があった。
目を閉じると、静かな医局の空気の中で、深雪の意識は急速に深く沈み込んでいく。それは、表向きの美しい医師としての顔から、冷酷な探求者の顔へとスイッチを切り替えるための、静かで短い空白の時間だった。
――数十分後。
規則正しい生体時計に従って目を覚ました深雪は、微塵の隙も感じさせない冷徹な瞳を開いた。
白衣の僅かなシワを払い、静かに医局を後にする。向かう先は、彼女自身の絶対的なテリトリーである特別研究室だ。
薬品の匂いが漂う無機質な廊下を歩きながら、深雪の脳内では今後のロードマップが冷ややかに再構築されていく。
(久慈助教授が動いたことで、あの最新型処置チェアの導入も確定した。これで、物理的な道具と環境はほぼ揃ったわね)
機材が届けば、いよいよ篠原をあの椅子に縛り上げ、AIの完璧な圧力管理のもと、一滴のノイズもなく限界値の先を測定できる。
(あとは――今回使う『触手毒』の検証ね)
深雪の艶やかな唇に、微かに弧が描かれる。
電子キーを操作し、研究室の重厚な扉を開ける。
冷やりとした空気が頬を撫でる中、深雪は闇に沈む部屋の照明を点灯させた。




