第118話 打算的な依存関係
一方、手術を終えたばかりの第一手術室の前。
自動ドアが開き、術着姿の深雪が姿を現した。そのタイミングを見計らったように、見学室から降りてきた久慈真理子が声をかける。
「お疲れ様、深雪。相変わらず、ため息が出るほど完璧な手技だったわ」
「ありがとうございます、久慈先生」
深雪はマスクを外し、静かに会釈を返した。その直後、ふう、と微かに息を吐き、目元を軽く押さえる。
(……流石に少し疲れたわね。昨晩の毒のシミュレーションで、少し寝不足だったかしら)
疲労の理由は最高難易度のオペではなく、深夜まで没頭していた狂気の思索によるものだったが、深雪は決してそれを表には出さない。
久慈は、優秀な部下が珍しく見せた『人間らしい疲労のサイン』に、ふふっと優越感の混じった笑みをこぼした。
「あなたでも疲れることがあるのね。少し休んでいきなさい。更衣室で着替えたら、コーヒーでもどう?」
「はい、お供します」
二人は並んで歩き出し、女性医師専用の更衣室へと入った。
静かな室内で、深雪が術着を脱ぐ。
端正な顔立ちはどこか西洋を思わせるが、彼女は生粋の日本人だ。透き通るような白い肌とすらりとした体躯。その一方で、露わになった胸や腰の曲線は、女としての生々しい存在感を隠しきれていない。
再び白衣に包まれれば、その神秘的で完成された姿に、同僚も患者も一目で惹きつけられてしまうだろう。
「相変わらず、完璧なプロポーションね。同性でも見惚れちゃうわ」
ロッカールームのベンチに腰掛けた久慈が、感嘆の息を漏らした。
深雪はブラウスのボタンを留めながら、涼しい顔で振り返る。
「やめてください。久慈助教授の魅力には敵いませんよ」
「あら、お世辞が上手くなったじゃない」
実際のところ、久慈も年相応の豊かなボリューム感と大人の色気を持ち合わせており、院内では彼女の美貌を推す声も多数存在している。
神聖な大学病院の中で、この二人の容姿と才能は別格として際立っていた。その二人が、まさか裏で恐ろしい人体実験の主犯と『隠れ蓑』という関係にあるなど、誰も想像すらできないだろう。
身支度を終えた二人は、コーヒーを飲むために医局の休憩室へと向かって廊下を歩き出した。
「そういえば……さっき見学室に篠原委員長がいらしていたんだけど」
歩きながら、久慈が何気ない世間話として口を開いた。
「なんだか、お顔が妙に艶やかでね。少し熱っぽくも見えたわ。あれだけお忙しい立場だから、お疲れが溜まっているのかしらね」
優秀な医師としての、無邪気で残酷な報告。
それを聞いた深雪は、歩みを止めることもなく、美しい横顔のまま表情を一切変えなかった。
(……あの状態なら、無理もないわね)
冷徹な思考で事実だけを処理し、深雪はただ「へえ、それは心配ですね」と、完璧な部下としての相槌を打った。
医局の奥にある、静かな休憩室。
コーヒーメーカーが抽出を終える微かな音が響く中、二人は向かい合わせのソファに腰を下ろした。
「今日のオペだけれど……次の学会で発表するための下資料、また深雪にお願いしてもいいかしら?」
カップから立ち上る湯気を眺めながら、久慈が申し訳なさそうに、しかし当然の権利のように切り出した。
「ええ、構いませんよ。いつものフォーマットでまとめておきます」
深雪はコーヒーを一口啜り、淡々と承諾する。
久慈にとって、深雪の存在は自身の地位と名誉を維持するための強力なカードだ。難易度の高いオペの成功も、隙のない完璧な学会資料の作成も、すべてこの底知れぬ才能を持つ後輩の手腕に依存している。
だからこそ――深雪が時折持ちかけてくる、倫理の枠を少しばかり踏み越えた『個人的な研究』の被験体になることも、久慈は無碍に断ることができない。
あの見学室で震えていた篠原委員長のように、深くまで侵食され、心身を完全に支配されているわけではない。しかし、久慈自身もすでに、深雪の狂気の一端に触れた『被験体経験者』なのだ。
深雪の有能さを享受する代償として、時折自身の身体を差し出す。それは久慈にとって、この甘美な共犯関係を維持するための必要経費のようなものだった。
「ありがとう、助かるわ。……そういえば、さっき院長にもまた釘を刺されちゃったのよ。くれぐれも深雪のサポートを頼むって」
久慈は苦笑交じりに肩をすくめ、深雪の顔を真っ直ぐに見つめた。
「わかっているとは思うけれど、今の研究体制で平気よね? 何か困っていることや、私に対する要望はないかしら」
「ええ、今のところは十分に良い環境をいただいています」
「そう、ならよかったわ。もし必要なものがあったら何でも言ってね」
良き上司としての思いやりと、この有能な手駒を絶対に手放したくないという打算。
その両方が入り混じった久慈の言葉に、深雪は無機質で、しかしひどく美しい微笑を返した。
「お気遣いありがとうございます。……では、近いうちにまた、私の『研究』のデータ取りに少しお付き合いいただけますか?」
「……ええ。もちろんよ」
その瞬間、久慈の背筋に、過去の実験で味わわされた言い知れぬ感覚が微かにフラッシュバックする。
だが、彼女はそれを大人の余裕という名のメッキで隠し、何事もなかったかのように優雅にコーヒーを啜った。




