第117話 側坐核の解説と視線の発火
第一手術室を見下ろす見学室。張り詰めた空気の中、院長がゆっくりと腕時計に目を落とした。
「久慈先生。このオペは、あとどれくらいかかりそうかね?」
「……そうですね。深雪のペースなら、あと十五分程度で腫瘍の摘出を終え、縫合に入れるかと」
「そうか」
院長は短く頷くと、先ほど篠原から受け取った資料に目を通すため、見学室の後方にあるソファへ腰を下ろした。ページをめくる微かな紙の音だけが響く。
窓際に立つ久慈と篠原の間に、ぽっかりと私語の許される空間が生まれた。
久慈は眼下でメスを振るう深雪を見つめたまま、隣に立つ篠原へ小声で語りかけた。
「見事な手技ですよね。今日の病巣は『側坐核』……つまり、脳の報酬系のすぐそばなんです。一ミリでもメスが逸れれば、患者の精神活動に不可逆のダメージが残ってしまう。本当に恐ろしい部位ですよ」
――側坐核。報酬系。
その医学用語を聞いた瞬間、篠原の脳裏に、自身の狂った現状が生々しくよぎった。
(報酬系……ええ、嫌というほど知っているわ。私のその部位は今、あの女のせいで、通常時の1.2倍近い異常な感度で働き続けているのだから……)
自分を地獄へ突き落とした部位の名称。ただの専門用語の響きでしかなかったそれが、今の篠原にとっては強力なトリガーとなった。
ピクリ、と。
鉄壁を装う篠原の肩が、微かに跳ねた。
同時に、下腹部の最奥を、微弱な電流のようなノイズが『ツーン』と鋭く突き抜ける。
条件反射で内腿の筋肉が収縮し、下着の中の湿りがさらにじわりと増した。篠原は腕に抱えたバインダーを指の関節が白くなるほど強く握りしめ、必死の意志で肉体の震えを殺す。
しかし、強引に抑え込んだ異常な熱の行き場は、確実に彼女の表面へと滲み出していた。
「……篠原委員長? どうかしましたか?」
隣で解説をしていた久慈が、ふと篠原の顔を覗き込んで首を傾げた。
「なんだか、妙に艶やかな血色をされていますが……。少し、お熱でもあるんじゃないですか?」
優秀な医師としての、純粋で無邪気な心配。久慈はただの体調不良を疑っているだけで、まさか目の前の厳格な倫理委員長が、眼下の部下が施した処置によって『常時異常な感度の波』に晒されているなどとは夢にも思っていない。
篠原は、背筋を這い上がるような絶望と焦燥感を冷たい仮面の奥に封じ込めた。
「……お気遣いなく。少し、この部屋の空調が効きすぎているだけです」
声が震えないよう細心の注意を払い、あくまで論理的で冷徹な委員長のトーンを保つ。
やがて、ソファが微かに軋む音がして、院長がゆっくりと立ち上がった。
それとほぼ同時に、眼下の手術室を覆っていた緊迫した空気が、ふっと解ける。
「院長。腫瘍の摘出、無事に終了しました。これより縫合に入ります」
窓際に寄った久慈が、誇らしげな声音で報告した。
「うむ……素晴らしい手際だ。今回のオペも、次の学会で極めて高い評価が得られるはずだ」
院長は深く頷き、久慈の肩越しに眼下を見下ろしながら、少しだけ声を潜めて言葉を継いだ。
「久慈先生、わかっているとは思うが……彼女のサポートは引き続き頼むよ。あの並外れた腕は、我が病院にとって絶対に手放せない財産だからな」
「はい。重々承知しております」
久慈が力強く頷く。彼女の関心と視線は、完全に院長と、眼下の『自身の優秀なパートナー』へと向けられていた。
やがて、縫合処置も淀みない完璧な手際で完了し、最高難易度のオペは無事に幕を閉じた。
緊張から解放された手術室の中で、マスク越しの深雪が、ふと顔を上げて見学室の窓を見上げた。そして、上司たちへ向けて静かに会釈をする。
その瞬間だった。
分厚いガラス越しに、深雪の冷徹な眼差しと、篠原の視線が一瞬だけ、確実に交錯した。
(――っ!)
視線が合った。ただそれだけの情報が、篠原の脳内で強烈なフラッシュバックを引き起こす。
常時1.2倍で稼働し続けている狂った報酬系が、彼女の視線を通じてあの『多点センサー』に蹂躙された暴力的な快楽を瞬時に認識し、チリッと勝手に発火したのだ。
「……ツッ」
ブルリ、と背筋に電流のようなノイズが走り、苦痛を堪えるような、それでいて熱を帯びた声が漏れる。
内腿に込めていた力が強制的に抜け、耐えきれなくなった膝がカクリと折れた。
篠原の身体が、その場に崩れ落ちそうになる。
「では、私は執刀医への労いも兼ねて、下に降りてきますね」
「ああ、頼む」
だが、幸いにも久慈と院長は、窓際から少し離れた後方で言葉を交わしており、篠原の異変には全く気づいていなかった。
咄嗟に壁へ手をつき、ギリギリのところで転倒を踏みとどまった篠原は、荒い息を殺しながら俯いた。
誰にも見られずに済んだ。そのことに安堵しながらも――自身の肉体が、あの女の視線一つで多点センサーの記憶を呼び起こし、生理的な発火を起こしてしまうという残酷な事実に、篠原は底知れぬ恐怖と絶望に打ち震えていた。




