第116話 毒の思索と無影灯
すべてのタイピングを終え、深雪は完成した実行シーケンスを冷徹な目で見直した。
完璧な計画だ。しかし同時に、深雪はひとつの事実を冷静に理解していた。
「――とはいえ、シミュレーションはあくまで机上の推論に過ぎないわね」
相手は機械ではなく、医学の常識を凌駕した未知の特異点だ。
篠原のハードウェアが予測を上回る耐久性と適応力を見せた場合、デバイスの電圧出力をシミュレーションの想定以上に引き上げられるケースも当然想定しておくべきだ。
Phase4で設定した尿道バルーンの投入タイミングにしても、ただ機械的にスケジュール通りに挿入するのではなく、骨盤底筋群が悲鳴を上げる限界の瞬間を直接目で見て見極め、最も効果的で逃げ場のないタイミングに応じて臨機応変に対応する必要がある。
「結局のところ、本番の波形がすべてを教えてくれる」
ふと視線を落とすと、モニターの右下に表示されたデジタル時計が、すでに『0:00』を回っていることを告げていた。
いけない、と深雪は小さく息を吐く。この美しくも異常なデータと向き合っていると、つい時間を忘れて没頭してしまう。
「明日は朝からオペが入っているんだったわね……。流石に、そろそろ休まないと」
深雪は立ち上がりかけて――ふと、その視線を研究室のさらに奥、厳重なセキュリティに守られた扉へと向けた。
そこには、かつて採取し培養を続けている『彼ら(触手)』が眠っている。
彼らという生体そのものを意のままにコントロールする領域には、未だ至っていない。
だが、彼らが分泌する特異な『神経毒』の解析は、着実に進んでいた。
(……もともと人間の脳に寄生していた生物の毒。なら、宿主の神経伝達を根底から抑制し、支配する成分が含まれている可能性は極めて高いわね)
あの篠原の暴走する脳(側坐核)を鎮め、あるいは意図的にコントロールする上で、これ以上ないアプローチになり得る。
その毒を実証レベルまで精製し、生体投与用に調整するには、もう少し時間がかかるだろう。
だが、だからこそ――篠原の治験の予定日は、何も慌てる必要はないのだ。いつでもいい。
今回の特注デバイスによる物理的アプローチに加え、あの特異な毒を用いた化学的アプローチの検証。今度の治験で、あわせて試してみる価値は十分すぎるほどにある。
深雪は口元に微かな、しかし底知れぬ探究心を孕んだ笑みを浮かべた。
「……楽しみね」
誰にともなくそう呟き、彼女はゆっくりとシステムの電源を落とすと、静かな研究室を後にした。
* * *
翌日。
第一手術室を見下ろす見学室は、冷ややかな静寂に包まれていた。
分厚いガラスの向こう側、無影灯の強い光に照らされた術野で、女医乃深雪はまるで精密機械のような完璧な静けさをもって手術を進行させていた。
術式は脳幹部近傍の腫瘍摘出。
無数に走る微細な神経と血管の隙間を縫って、奥底に巣食う病巣だけを削り取る。わずか一ミリの手元の狂いが、患者の機能を永遠に奪いかねない。脳神経外科の領域においても、最高難易度に分類されるオペだった。
「……ほんと、ため息が出る手技ね」
見学室からその様子を見下ろしていた助教授・久慈真理子は、ふう、と小さく息を吐いた。
若くして主任を務め、今や助教授の座に就いている久慈自身、確かな実績と技術を持っている。凡百の医師であれば足がすくむような修羅場のオペも、幾度となく経験してきた自負があった。
だからこそ――深雪の『規格外の才能』が、痛いほどによく分かるのだ。
上部のモニターに映し出される、顕微鏡下でのミリ単位の剥離作業。深雪の指先には、迷いも、手ブレも、一切の『人間らしい誤差』が存在しない。まるで最初から正解のルートが可視化されているかのように、淀みなくメスが進んでいく。
(あれだけは、どれほど努力しても追いつけないわね)
一人の外科医としての敗北感。しかし、久慈の口元には微かな、どこか安堵したような柔らかい笑みが浮かんでいた。
これほどの才能を持った天才が、自分の管理下に収まってくれているのだ。
深雪は出世や権力闘争に一切の興味を示さず、ただ『自分の研究に没頭できる環境』だけを求めている。久慈がその環境(研究室)という居場所を守ってあげる限り、彼女は決して裏切らない。
(これからもよろしく頼むわよ、深雪。あなたのその腕は、私のキャリアを引き上げてくれる、一番大切なパートナーなんだから)
眼下の優秀な部下を見つめ、久慈が満足げに目を細めていたその時。
――カチャリ、と。
見学室の後方にある重厚な扉が、静かに開く音がした。
振り返ると、そこに立っていたのは白衣姿の院長だった。
その後ろには、倫理委員長の篠原美沙子が、数冊のファイルや資料を胸に抱えて静かに控えている。
「どうかね、久慈先生。脳幹部の腫瘍摘出……かなり難易度の高いオペだと聞いているが」
院長はゆっくりと見学室のガラス窓に近づきながら、眼下の手術室へ視線を向けた。
「ええ、院長。通常であれば非常にリスクの高い術式ですが……深雪の執刀は完璧です。迷いもなく、出血量も驚くほど最小限に抑えられています。順調そのものですよ」
久慈は少し誇らしげに、自らの優秀な部下を評価した。
「そうか。相変わらず、恐ろしいほどの腕前だな。彼女を手元に置いている君の管理能力も大したものだ」
「恐れ入ります」
院長は眼下の神業に満足げに頷くと、背後に控える篠原へ振り返った。
「さて、篠原委員長。先ほどの会議で保留になっていた、来期の機材導入に関する資料を見せてもらえるかな?」
「はい。こちらになります、院長」
篠原は表情一つ変えず、完璧な委員長としての冷徹な声音で応え、抱えていた資料をすっと差し出した。仕立ての良いスーツに身を包み、背筋をピンと伸ばしたその姿は、どこからどう見ても厳格で隙のないキャリアウーマンそのものだ。
しかし――その鉄壁の『表の顔』の下で、彼女の身体は密かな異常事態に蝕まれていた。
眼下でメスを握る深雪の姿を見たから、というわけではない。今の篠原は、日常的に、そして慢性的に襲ってくる『時折のノイズ』に苛まれ続けているのだ。
不意に下腹部の奥をツーンと突き抜ける、微弱な電気信号のような錯覚。それがもたらす生々しい疼きが、今この瞬間も篠原の下着をじわじわと湿らせ続けている。
篠原は資料を渡す淀みない所作の裏で、内腿が微かに震えそうになるのを、誰にも気づかれないように必死の意志で押さえ込んでいた。




