第112話 深部神経へのアプローチ
大学病院の薄暗い研究室。女医乃深雪は、モニターの光に照らされながら、静かにキーボードを叩いていた。
画面に表示されているのは、篠原の最新の脳波と各神経伝達物質の測定データである。側坐核周辺――常人の1.2倍にまで肥大化を遂げた報酬系の数値が、無機質に明滅している。
深雪の唇が、研究者特有の冷徹な弧を描く。
ここまで神経回路が肥大化していれば、日常生活における些細な視覚情報や音でさえ、脳が勝手に巨大な快楽パルスへと変換してしまう。彼女が「ノイズに悩まされている」と訴えてくるのも、医学的な観点から見れば必然だった。
深雪は画面を切り替え、次回の治験で使用する『拡張型多点センサー』のシミュレーションプログラムを起動した。
『Simulation: Output Level 30% [ 7.5 mA ] ―― Warning: Instant System Shutdown Detected.』
モニターに赤い警告ログが走る。
前回の治験で彼女の理性を粉砕し、125.0%という異常値を叩き出したあの出力は、実のところ最大出力の二割(5.0mA)に過ぎない。そこから出力を引き上げ、人間の脳が耐えうる絶対的な限界値――『三割(7.5mA)』に到達した場合の予測結果だ。
グラフは開始数秒で垂直に跳ね上がり、レッドゾーンを突き抜ける。脳の自己防衛機能が働き、被験体はプロセスを観測させる間もなく、強制的に失神してしまう。
「最大出力の、わずか三割(7.5mA)で限界か……」
深雪は呟き、シミュレーターのパラメータをリセットする。
そもそも、人間の快楽を計測する程度の用途で設計したデバイスではない。人間の脳のハードウェアが三割(7.5mA)の出力で限界を迎え、焼き切れてしまうのも当然だった。
深雪が欲しいのは「高電圧で一瞬にして壊れた」という結果ではない。いまだ医学が解き明かしていない快楽の経路が、どこまで登り詰め、どのような波形を描いて絶対的な上限(マックス状態)に達するのかという、緻密で美しいプロセスデータなのだ。
電流に頼るのが危険ならば、アプローチを変えるしかない。
深雪の指先が、新たな快楽の解剖図を描くように、冷たくキーを叩き始めた。
大型のデュアルモニターに、二つの異なる骨盤内の3Dモデルが並べて表示される。
左側の画面に映し出されたのは、前回の治験(Type-66)におけるセンサーの着床データである。
青白い光点として示された電極の配置は、膣内深部やGスポットなど、あくまで粘膜の「表面」に対するアプローチに過ぎなかった。しかし、その偶然の接触が彼女の隠された素質(Talent)と完全に同期し、脳のハードウェアを不可逆的に書き換える特異点となってしまった。
結果として現在の彼女の報酬系は、常人の1.2倍という規格外のサイズにまで物理的に高密度化している。
深雪の視線が、右側の画面――新たに設計した次回のシミュレーション図へと移る。
右側のモデルには、前回の着床ポイントに加え、新たな電極の配置が赤い光点として追加されている。その光点が狙いを定めているのは、粘膜の表面ではない。膣壁のさらに奥、骨盤の底に張り巡らされた巨大な神経の根だ。
『陰核脚』。
外部には露出していない、この器官の巨大な本体部分。新たなセンサーは、あからさまな外部刺激を避け、膣壁の内部からこの神経の根元を直接挟み込むような配置となっている。
常人の1.2倍にまで高密度化し、常にアイドリング状態でノイズを発し続けている異常な報酬系。この巨大化したエンジンから、気絶させずに上限までの正確なプロセスデータを採り切るためには、表面を撫でるような単純な入力や、単なる電圧の引き上げでは限界がある。
必要なのは攻撃ではない。入力する情報量の経路の拡張だ。
この奥深くに眠る巨大な神経叢を直接測定経路に組み込むことで、電流は前回と同等に抑えたまま、より複雑で膨大な電気信号を脳へ直接送り込むことができる。
これは、1.2倍の容量を持ってしまった彼女の新しいハードウェアに対する、測定インターフェースの「最適化」に他ならない。
深雪は、右側の画面で赤く点滅する陰核脚の3Dモデルを、感情の読めない静かな瞳で見つめ続けていた。




