第111話 残響と防壁
深雪の研究室を後にした篠原は、無機質な病院の廊下を、普段と寸分違わぬ冷徹な足取りで歩いていた。すれ違う看護師や若手医師たちに、氷のように整った美貌で完璧な会釈を返す。
だが、その内側は完全に狂いかけていた。
一歩踏み出すたびに、タイトスカートの下で「ねちゃり」と卑猥な水音が響きそうになる。それを周囲に悟られまいと、篠原は内腿の筋肉を限界まで緊張させ、骨盤底筋群を引き締めたまま不自然な歩行を強いられていた。
物理的な通電は、とうに終わっているはずだった。
しかし、うなじの『AS-09パッチ』が貼られていた箇所から、幻覚のような微弱電流の「残響」が波を打って押し寄せてくる。
――ジリッ、ジジッ……。
うなじの皮膚から侵入した熱が、頸髄から胸髄へと太い神経の束を伝って駆け下りていく。その残響が腰仙髄に達した瞬間、骨盤内臓神経が直接焼かれたように弾け、下半身の奥底を激しく収縮させた。
「っ……」
ヒールの足首がカクンと折れそうになるのを、すんでのところで堪える。
常人の1.2倍に高密度化した彼女の側坐核(報酬系の中枢)は、先ほどの微弱な電流では到底満足していなかった。あの高密度多点センサーがもたらした、圧倒的な快楽の奔流を知ってしまった脳が、「もっと寄越せ」と勝手にドーパミンを要求し、終わらないアイドリング振動を起こしているのだ。脳と脊髄、そして下半身の受容体が、存在しないはずの電流を求めて狂ったように空回りしている。
逃げ込むように自身の聖域――倫理委員長室の重い木扉を閉め、内鍵をかけた瞬間。
堰を切ったように、篠原の口から熱を帯びた荒い吐息が漏れた。
「はぁっ、ふぅっ……くっ……」
デスクにすがりつき、震える膝をごまかすように革張りのチェアに崩れ落ちる。
このままでは、身体の中から湧き上がるノイズに精神が食い破られてしまう。篠原は暴走する「報酬系」を黙らせるため、自身の最強の武器である前頭前野(理性)を強制的に起動させた。
彼女は震える指先で、デスクに積まれた分厚い「治験承認決裁書」のファイルを引き寄せた。難解な医療用語と、幾重にも張り巡らされた倫理規定の文字列。その無機質な活字の海に意識を没入させることで、神経を駆け巡る熱を冷却しようというのだ。
万年筆を握り、書類の項目に鋭い視線を走らせる。
一行、また一行と文字を追ううちに、乱れていた呼吸が少しずつ規則的なリズムを取り戻し始めた。
背筋を焼いていた電流の残響が薄れ、タイトスカートの下で脈打っていた重苦しい疼きが、わずかに遠のいていく。脳の主導権が、動物的な本能から、なんとか論理的思考へと引き戻されていくのを感じた。
(……大丈夫。私はまだ、倫理委員長として機能できる)
万年筆のペン先が、決裁欄にサインを刻む。
危うく決壊しかけていた理性の防壁を必死に継ぎ接ぎし、どうにか『日常の体裁』を取り繕った――わずかばかりの安堵だった。
しかし、順調に書類を捌いていた篠原の手が、次の一冊の上でピタリと止まった。
表紙に印字された無機質な文字列――『高密度多点センサー症例ファイル』。
その文字を認識した瞬間、篠原の前頭前野は強烈な警鐘を鳴らした。(見てはいけない。それは、理性を溶かす劇薬だ)
だが、先ほどの微弱電流でアイドリング状態に陥っていた彼女の側坐核は違った。常人の1.2倍に肥大化した報酬系が、その文字列の奥にある『圧倒的な快楽の質量』を想起し、勝手にドーパミンを分泌し始めたのだ。
(開くな、次の決裁に移れ……っ!)
頭ではそう命じているのに、指先がファイルから離れない。それどころか、小さく痙攣する指は、磁石に吸い寄せられるように無意識のうちに表紙をめくっていた。
目に飛び込んできたのは、多点センサーのグロテスクなほど緻密な図解だった。
無数に枝分かれした極細の電極群が、まるで意思を持った根のように陰部神経叢から骨盤内臓神経へと絡みつき、神経の最深部まで強制的に掌握していくおぞましい構造。そして、それが神経系に及ぼす異常な作用データ。
網膜から入力されたその視覚情報が、かろうじて機能していた理性のフィルターを完全に焼き切った。
――ゾクッ。
物理的には何も挿入されていないはずの篠原の下半身が、図解を見ただけで「あの異様な質量と、枝分かれした電極が蠢く感覚」を完璧に錯覚した。
同時に、鼓膜の奥に生々しい幻聴が響く。
『――それでは、レベルを上げますね』
あの治験の夜。無慈悲にパラメータを操作した、深雪の酷薄なまでに事務的な声。ただの数値を計測するだけの、淡々とした響き。
そして、狂おしいほどの熱を持った自身の下腹部を撫でた、あの女のひどく冷たい指先の記憶。
視覚、聴覚、触覚。すべての幻覚が同期した瞬間、臨界点を突破したシグナルが爆発した。
下半身の最奥から発生した高圧電流のような快楽の波が、腰髄から胸髄、頸髄へと脊髄を一気に駆け上がり、生命維持の中枢である『脳幹』へとダイレクトに突き刺さる。
「お……っ、ぉぅっ……くっ、ぅ……!」
高い嬌声などではない。理性を総動員し、必死に喉の奥で悲鳴を押し殺そうとする、中年女性の低く生々しい喘ぎ声だった。
先ほどまで必死に継ぎ接ぎしていた「日常の体裁」など、一瞬で塵芥に帰した。背骨が弓なりに大きく反り返り、篠原は声を押し殺しながらデスクに突っ伏した。高級な革張りのチェアからずり落ちそうになる身体を、決裁書類を握りしめる両手だけで辛うじて支える。
バサバサと床に落ちていく倫理規定のファイル。タイトスカートの下では、もう隠しようのない卑猥な熱が溢れ出していた。
たった一枚の図解と、無機質な記憶のフラッシュバックだけで十分だった。彼女の誇り高き理性は、決して完全に破壊されたわけではない。むしろ、皮肉なほど冷徹に冴え渡る意識のまま――自らの肉体が『報酬系という名の暴君』の突きつける理不尽な快楽に抗いきれず、無様に屈服していく姿を、ただ絶望とともに見せつけられていた。




