第110話 終わらない微熱
「お疲れ様でした。パッチを剥がしますね、委員長」
「……あ、っ」
深雪がうなじから冷たいデバイスをペリッと剥がす。
物理的な接続が切れてもなお、篠原の体内では、多点センサーを待ち焦がれて空振りを続けた下半身が、ズキズキと痛いほどの疼きを放ち続けていた。
「そこのパーテーションの裏で着替えてください」
「……ええ」
篠原は震える足に必死に力を込め、そそくさとパーテーションの裏へ逃げ込んだ。
汗ばんだ検査着を脱いだ瞬間――狭い空間に、自分自身から発せられたひどく甘く、重い匂いがむわっと立ち込めるのを感じて、篠原は絶望的な羞恥に顔を歪めた。
(……身に覚えはある。けれど、ただパッチを貼られて座っていただけなのに、ここまで……っ)
ショーツのクロッチ部分は完全に濡れそぼっており、ひんやりとした不快な湿度を保っていた。その生々しい感覚の上に、ストッキングを引き上げ、タイトスカートを履き直さなければならない。
動くたびに、過敏になった粘膜が擦れて微かな刺激が走る。
深雪にこの匂いを勘付かれていないか。歩き方が不自然になっていないか。篠原は「私は委員長だ」と必死に鉄面皮を被り直し、パーテーションから出た。
カポッ、カポッ……。
研究室には、コーヒーメーカーが小さな音を立てていた。
いつの間にか白衣を脱いでいた深雪が、紙コップに二つのブラックコーヒーを注いでいるところだった。焙煎された豆の香ばしい匂いが室内に漂い、篠原は自分の体臭が誤魔化されたような気がして、ほんの少しだけ息を吐く。
「どうぞ。少し、休んでからで結構ですよ」
「……ありがとう」
手渡された紙コップは、冷え切った指先にじんわりと温かかった。
深雪は自分の分のコーヒーを一口啜ると、手元のタブレットをスワイプし、篠原に向けて画面を見せた。
「このグラフを見てください。通常、この検査レベルの微弱な通電で、このような数字が出ることはあり得ません」
「……これは」
「ええ。最初の通電の瞬間、波形がほぼ垂直に立ち上がっています。さらに、後半で電圧を変えた際にも、そこから一段階、垂直に跳ね上がっているのがわかりますね」
画面に表示された異常なスパイクの波形を見て、コーヒーの温もりで落ち着きを取り戻しかけていた篠原の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「結論から言います。貴女の神経回路は、快楽を受信するためだけに異常な『高密度化』を遂げています」
深雪は淡々としたトーンで、残酷な診断を下した。
「神経の伝導容量、つまり配線の密度が常人の約1.2倍。そして、終点である側坐核の増幅率も約1.2倍で再構築されています。物理的なサイズは変わらないまま、未知のポテンシャルが開花してしまっている。無通電の待機状態でも、常に負荷がかかっている波形が出ています。これが、貴女が時折感じているノイズの原因ですね」
そこまで説明し終えると、深雪はコーヒーの縁から、静かに篠原の目を見た。
「……問診として伺いますが」
「っ……何かしら」
「先ほどのパッチによる検査中、貴女はあの微弱な通電を、明確な『刺激』として自覚されていましたか?」
極めて事務的な、医師としてのフラットな問いかけだった。
「常人であれば皮膚の抵抗で消散し、何も感じないレベルの電圧でしたが」と、深雪は手元のタブレットに視線を落としながら付け加える。
図星を突かれた篠原は、紙コップを持つ指先を微かに震わせた。
隠しても無駄だ。目の前の冷徹なデータはすべてを暴き出しているし、何より、今この瞬間もタイトスカートの下でぐちゃぐちゃに濡れそぼっている自身の惨状が、その事実を雄弁に物語っている。
それでも、篠原は委員長としての最後の矜持を手放すことができなかった。
「……ええ」
小さく、ひどく掠れた声で答える。
「少し、熱を帯びた感覚が……」
「わかりました。『少し』、ですか」
深雪は手元のタブレットに、事務的な手つきで所見を追記した。客観データでは常人の二割増しという異常な波形を常時弾き出しているにもかかわらず、必死に体裁を保とうとする委員長のプライドを、一切の感情を交えないキーボードのタイピング音が削り取っていく。
「現在の日常生活はいかがですか。無通電時の負荷による影響ですが」
「……相変わらず、時折ノイズに悩まされているわ」
篠原は温くなったコーヒーを一口含み、努めて冷静に言葉を継いだ。
「普段の生活自体はできているけれど……仕事中、特に会議などで集中したい時には、どうしても支障があるわね」
「わかりました。カルテに記録しておきます」
篠原もまた、医師である。
客観的なデータを見せられた以上、この高密度化した神経回路が自然治癒することなどあり得ないのは、誰に言われるまでもなく十分に理解していた。
「……それで」
篠原は紙コップをテーブルに置き、努めてフラットな、医療従事者としての声色を取り繕って問いかけた。
「以前のメールで言っていたわね。特定の回路にアプローチするということで……この異常なノイズを、物理的に抑え込むことは可能なの?」
「ええ。確かに原因は見えてきました。アプローチは可能です」
深雪が淡々と肯定したことで、篠原は内心で微かに安堵の息を吐きかけた。
だが、深雪はそこで一呼吸置き、手元のタブレットから静かに視線を上げる。
「ただ、このパッチによる検査レベルの極微弱な通電で、すでにこれだけの異常値が観測されている。となれば……おそらく、貴女の神経回路の増幅率は、潜在的にもっと高いレベルにあると考えられます」
「……っ、確かに」
篠原は小さく呟いた。
医師としての冷静な論理が、深雪の推論の正しさを一瞬で理解してしまう。同時に、ぐさりと冷たい刃で心臓を抉られたような絶望感が篠原の胸を貫いた。
自分が今、日常的に抱え込んでいるこの「一・二倍」の疼きすら、本当は氷山の一角に過ぎないのだ。水面下には、あのセンサーをトリガーにして開花してしまった未知の許容量が口を開けて眠っている――。
「ええ。そして、ここからが本題です」
深雪は残っていたコーヒーを飲み干し、極めて事務的なトーンで告げた。
「その異常なノイズを的確に抑え込むプログラムを構築するためには、以前のメールでもお話しした『再現性』の確認が必要になります」
「……再現性?」
「ええ。以前もお話しした通り、やはり前回の治験と同様の環境下で、貴女の神経回路がどこまで跳ね上がるのか。その正確なピーク値のデータが必須かと」
「それ、は……」
深雪の口から放たれた宣告に、篠原は息を呑んだ。
前回の治験と同様の環境。それが意味するものは一つしかない。
「あの、『多点センサー』を……もう一度、私の中に入れるというの?」
「ええ。正確には、再挿入した上で、貴女の神経回路を最大値まで到達させる必要があります」
――ドクン、と。
恐怖と羞恥で顔を青ざめさせる篠原の意志とは裏腹に、タイトスカートの下に隠された下半身が、その単語を聞いただけで勝手に熱を帯び、ギュッと卑猥に収縮した。
(馬鹿な……やめなさい。あんな恐ろしい機械、二度と……っ)
篠原は必死に太腿に力を込め、震える声で反論を試みる。
「待って。今日の……このパッチのデータだけじゃ、抑制プログラムは作れないの?」
「不可能です」
深雪は冷たく、そして医師として極めて正当なロジックでそれを切り捨てた。
「中途半端な上限値でブレーキを設定した状態で、もし日常で想定外の強い負荷がかかればどうなるか。……抑えきれずにオーバーフローを起こし、最悪の場合、脳の報酬系が焼き切れます。安全にリミッターをかけるには、貴女の回路が『最大でどこまで跳ね上がるのか』という、絶対的な上限データが不可欠です」
「……っ」
篠原は言葉を失った。
深雪の言っていることは、医療のアプローチとして完全に正しい。中途半端なデータで脳神経をいじることの危険性は、医師である篠原自身が一番よく理解していた。
(……このノイズを消せるなら。これきりに、できるなら……)
篠原はギュッと目を閉じ、絞り出すように言った。
「……わかったわ。そのピーク波形さえ取れれば、確実にこの異常なノイズは消せるのね」
「確実にお約束できるとは、言えません」
すがりつくような問いを、深雪はあっさりと否定した。
「ですが、そのデータがあれば、アプローチの可能性は格段に広がるかなと」
「……っ」
絶対の保証すらない。それでも、篠原にはもうこの細い蜘蛛の糸に縋るしか道は残されていなかった。
絶望に沈む篠原をよそに、深雪は手元のタブレットを閉じ、事務用の椅子から立ち上がった。
「次回のセッションは、機材の準備や予定の調整などがありますので、また追ってご連絡します」
「……え? 待って、じゃあ今日は……」
「明日は早朝からオペの準備がありますので、本日はこれで。お気をつけてお帰りください」
深雪はそれ以上何も語らず、あっさりとパソコンの電源を落とした。
静まり返る研究室に取り残された篠原は、めまいを覚えた。
(いつになるかも分からない次回の連絡まで……今、このパッチのせいで火をつけられ、日常を過ごせというの……!?)
委員長の悲鳴のような絶望は、誰に届くこともなく、ただ冷たい研究室の空気に溶けていった。




