第109話 微熱のベースライン
午後七時。第三研究室。
「急に押しかけてしまって、ごめんなさいね」
分厚い防音扉を閉めながら、篠原美沙子は努めて平坦な、いつもの『委員長』の声を出した。
「いえ。ただ、明日は早朝から難度の高いオペが入っていますから、手短に済ませましょう」
白衣姿の深雪は、真新しいモニター(新型の術中モニタリングシステム)のキーボードを叩きながら、振り返りもせずに淡々と答えた。
その事務的でそっけない響きに、篠原は内心で微かに安堵する。相手にとって私は、数あるタスクの一つに過ぎないのだと。
「ええ。三十分のデータ取りだったわね」
「はい。そこのパーテーションの裏で検査着に着替えてください。下着はそのままで結構です。終わったら、いつもの台へ」
深雪が淡々と視線を向けた先には、あの『多点センサー』の実験で使われた無骨な診察台が置かれていた。
視界に入った瞬間、脳の奥でチリッと火花が散る。
「……拘束は、しないのよね」
「ええ。大掛かりなデバイスは使いませんよ。首にパッチを貼るだけですから」
深雪の言葉に背を押され、篠原はパーテーションの裏へと回った。
ジャケットを脱ぎ、タイトスカートのホックに手をかける。
(……落ち着きなさい。ただの、エラーの測定よ)
自分に言い聞かせながらストッキングを引き下ろす。だが、ナイロンの繊維が肌を擦る微かな摩擦すら、今の過敏な神経は「快楽のノイズ」として拾い上げてしまう。
会議中からずっと下腹部で燻り続けている、得体の知れない熱。
ショーツのクロッチ部分が、自身の恥ずかしい湿度で重く、ひんやりとしているのを自覚し、篠原はギュッと唇を噛んだ。
(下着は脱がなくていいと言われたことだけが、せめてもの救いね……)
もしこれを見られれば、委員長としての矜持が完全に崩壊してしまう。
冷房の効いた室内の空気と、己の体内からとめどなく湧き上がる微熱。その極端な温度差に粟立つ肌を隠すように、篠原は素っ気ない検査着に袖を通した。
ただ布地が胸の先端を擦っただけで、ビクッと肩が跳ねる。身体全体が、常人より過敏な状態で「次なる刺激」を待ち構えてしまっている証拠だった。
篠原は震える息を細く吐き出し、意を決してパーテーションから出た。
そして、あの夜の強烈な記憶が染み付いた冷たいレザーの診察台へと、ゆっくりと腰を下ろした。
深雪が背後に回り、頸椎のあたりに冷たい『高密度神経接続パッチ(AS-09)』をペリッと貼付する。前回も使用したデバイスだ。
だが――ツーン。
たったそれだけの接触で、篠原の脊髄から下腹部の奥に向かって、甘く痺れるような熱が走った。理性の制御を無視して、身体が勝手に「あの途方もない快楽(本番)が来る」と勘違いし、内側からじんわりと湿度を帯び始める。
(……落ち着きなさい。ただのパッチよ。体内への挿入はない)
篠原は小さく息を吸い、必死に自分へと言い聞かせた。
「では、システムと同期します。計測の特性上、パッチと神経を繋ぐ微弱な電流が流れますが、常人なら皮膚の抵抗で消えて何も感じないレベルです」
深雪がエンターキーを叩いた。
――カチッ。
「……えっ? あ、」
篠原の肩が、診察台の上でビクンッと小さく跳ねた。
常人なら何も感じないはずの微細な電流。それが、彼女の「抵抗ゼロの配線」を直通し、過敏に待ち構えていた側坐核を直接撫で上げたのだ。
予想外の感覚に、篠原は思わず戸惑いの声を漏らす。
深雪は、新型モニターに映し出された波形を見て、内心で静かに目を細めた。
(……なるほど。この微弱な通電だけで、すでに常人の1.2倍)
深雪は冷たく分析した。目の前で涼しい顔を作ろうと必死に耐えている委員長は、会議中からずっと、常人が明確な興奮状態にあるのと同じレベルの「微熱(2割増しの過剰負荷)」を、自力で抱え込みながら執務をこなしていたということになる。
「……神経伝達率、および側坐核の増幅率。一般人の約1.2倍の数値で推移しています」
息を呑んで戸惑う篠原の背後で、深雪の涼やかな声が、残酷な数値を読み上げた。
「このベースラインのまま、十五分間定常データの継続取得に入ります。動かないでください」
「えっ……」
篠原は思わず声を漏らした。
(この状態で、十五分……?)
ただ、冷たいレザーの診察台の上に座っているだけだ。拘束具は降りていないし、体内への物理的な挿入もない。
だが、首筋のパッチから絶え間なく流れ込む「計測のための極微弱な電流」が、篠原の身体を内側からじわじわと炙り始めていた。
常人なら皮膚の抵抗で消散するはずの微弱なパルス。それが、超伝導と化した篠原の『脊髄』を、一切の減衰なく駆け上がっていく。
直撃を受けた脳の奥底――側坐核(報酬系)が、瞬時に1.2倍の快楽波形を弾き出す。
だが、それは篠原に安らぎや絶頂をもたらすものではなかった。
彼女の脳は、あの多点センサーがもたらした『爆発的な黒字』を、絶対的な基準値として記憶してしまっている。だからこそ、側坐核はパッチからの「1.2倍の入力」を受け取るたびに、致命的なエラーを吐き出した。
(足りない。こんな微弱な刺激では足りない。あの圧倒的な質量を寄越せ――)
脳が発する強烈な『渇望』は、すぐさま肉体への命令となって下される。
「……っ、ふ」
静まり返った研究室に、空調の稼働音と、深雪の淡々としたタイピング音だけが響く。
五分、十分と経過するごとに、篠原の下腹部は37.5度の微熱を帯びたように重く、熱く煮詰まっていった。脳が「次なる強烈な刺激(本番)」を期待して勝手に準備を始め、ショーツのクロッチ部分が恥ずかしい湿度でべったりと張り付く。
診察台の冷たさと、体内の異常な熱。
篠原は必死に『委員長としての理性』を総動員し、無意識に擦り合わせそうになる太腿を硬直させて耐えた。声を殺し、表情を殺し、ただの「エラーの測定」なのだと自分に言い聞かせる。
だが、理性が我慢すればするほど、行き場を失った熱は下半身に滞留し、コトコトと生殺しのように煮詰まっていく。じんわりと、背筋に嫌な汗が滲んだ。
永遠にも思える時間が過ぎ――やがて、深雪のタイピングの手がピタリと止まった。
「……前半の十五分、データ取得完了しました」
その声に、篠原は(やっと終わる……)と、こわばっていた肩の力を抜きかけた。
だが、深雪は振り返りもせず、事務的なトーンのまま手元のタブレットを操作した。
「続いて後半の十五分に入ります。データの整合性を確認するため、パッチの電圧を一段階変更します」
「……え?」
「動かないでくださいね」
有無を言わせぬ宣告。
篠原が抗議の声を上げるよりも早く、深雪の細い指が、無慈悲にエンターキーを叩いた。
――カチッ。
「……っ、――ぁ」
電圧が上がった瞬間。篠原の身体は大きく跳ねることはなかった。ただ、全身の筋肉が硬直するようにビクリと震え、必死に食いしばっていたはずの唇が、耐えきれずに半開きになる。
悲鳴や嬌声は、すんでのところで理性が喉の奥へと封じ込めた。だが、緩んだ口元からは、熱を帯びたかすれた吐息だけが、荒いリズムで漏れ出し始める。
(あ、が……っ、なに、これ……!)
前半の「1.2倍」の微熱によって、コトコトと煮詰まり過敏になっていた側坐核。そこに、一段階引き上げられた明確な電気パルスが直撃したのだ。
脳(報酬系)は、その強い刺激を「ついにあの本番(多点センサー)が来る合図だ」と致命的な勘違いを起こした。
途端に、篠原の下腹部が勝手な連動を始める。
パッチからの電気信号しか送られていないのに、最奥の柔らかな粘膜が、あの無骨で巨大なデバイスの質量を迎え入れようと、ギュッ、ギュッと激しい収縮を繰り返すのだ。
だが、どれだけ収縮して待ち構えても、空っぽの体内には何も挿入されない。ただ「強烈な前戯(パルスの直撃)」だけが延々と与えられ続ける。
「……っ、ふ、ぅ……っ」
行き場を失った両手が、診察着越しの自身の太腿を強く握りしめた。
爪が食い込むほどに肉を掴み、そのまま何かを求めるように、あるいは這い上がってくる熱をどうにか散らそうとするように、所在なげに太腿の周囲を彷徨い、こすり合わせる。
指先は微かに震え、焦点の合わない瞳は虚空を彷徨っていた。
それでも深雪は、身悶えする篠原を一瞥することすらしない。
新型モニターに映し出される「供給不足」の真っ赤な警告表示と、常人なら数日で衰弱するほどの異常な快楽波形を、ただ無言で冷徹に記録し続けていた。
――そして、永遠にも思える地獄の十五分が過ぎた。
ピピッ、と無機質な電子音が研究室に鳴り響く。
「はい。三十分の計測、終了です」
深雪はキーボードから手を離すと、事務用の椅子を回して振り返った。
診察台の上では、篠原が汗だくになりながら、荒い息を繰り返している。太腿を握りしめた両手は硬直したままで、半開きの口元からはまだ熱い吐息が漏れていた。
「お疲れ様でした。パッチを剥がしますね、委員長」
「……あ、っ」
深雪がうなじから冷たいデバイスをペリッと剥がす。
物理的な接続が切れてもなお、篠原の体内では、多点センサーを待ち焦がれて空振りを続けた下半身が、ズキズキと痛いほどの疼きを放ち続けていた。




