第108話 定例会議と回路の誤作動
金曜日の午後。定例運営会議。
篠原美沙子は、倫理委員長の席で手元の資料に目を通していた。
深雪へのメールから二日が経過している。返信はまだない。
外科医の激務を考えれば、単に時間が取れていないだけだろう。篠原はそう冷静に判断し、自身の業務に集中していた。
「続きまして、外科部門の月次報告です」
司会の声と共に、久慈真理子が立ち上がった。
外科主任としての実績報告。彼女は淀みなく数値を読み上げていく。
篠原は、その横顔を無感情に眺めた。
ただ、視覚情報として「久慈真理子」という個体を認識した瞬間、脳内の検索システムが、不必要な関連タグを拾い上げた。
――被験体。
久慈もまた、あの多点センサーを使用した人間である。
その事実認識だけで十分だった。
思考を挟む余地もなく、脊髄反射のように神経回路が繋がり、信号が走った。
「……っ」
下腹部への、唐突な熱の供給。
久慈を見たという入力信号が、篠原自身の性中枢を誤って叩き、予備動作なしに**「発火」**したのだ。
感情の揺らぎなどない。ただ、パブロフの犬のように、身体が勝手に濡れ始めた。
「――以上です。続いて、特殊症例の報告を女医乃医師より行います」
久慈が着席し、入れ替わりに深雪が立ち上がった。
涼やかな声が、マイクを通して会議室に響く。
高度な脳外科手術の症例報告。院長や各部長たちが感心して頷く中、篠原の身体だけが、その「声の周波数」に過敏に反応していた。
実験室で聞いた声と同じトーン。
内容がどれほど医学的で難解であろうと、脳の報酬系はそれを「快楽の前触れ(プライミング)」として処理してしまう。
篠原は、眉ひとつ動かさずに耐えていた。
だが、深雪がスライドを切り替え、レーザーポインターで神経の走行をなぞった瞬間。
視覚と聴覚の複合刺激が、理性の閾値をわずかに超えた。
「……っ、ふ」
静寂の中に、短く、乾いた吐息が漏れた。
隣席の事務員が視線を向けるが、篠原は表情を変えず、手元のグラスに手を伸ばして水を口に含んだ。
冷たい水が喉を通る。
しかし、スカートの中で起きている生理的な充血は、会議が終わるまで鎮まることはなかった。
会議が終了し、参加者たちが三々五々に席を立つ。
深雪は手元の資料をまとめると、誰とも言葉を交わさず、足早に会議室を後にした。次のオペか、あるいは学会の準備か。その背中には、多忙な外科医としての日常しか漂っていない。
取り残されたような感覚を覚えながら、篠原もまた立ち上がろうとした時だった。
「篠原委員長」
声をかけてきたのは、久慈真理子だった。
外科主任としての報告を終え、どこか晴れやかな表情をしている。
「その後、体調はいかがですか? 先日は少し顔色が優れないようでしたが」
久慈の視線が、篠原の顔を覗き込む。
純粋な気遣いだろう。だが、篠原の身体は、先ほどの会議中に勝手に発火し、今もまだ微熱を帯びている。
「……ええ。心配をおかけしましたが、なんとか」
篠原は努めて平静を装い、短く答えた。
久慈は、少し首を傾げるようにして篠原を見つめ直す。
「そうですか。……今日はお顔の色が良いようで、安心しました。少し、紅潮されているくらいですね」
悪気のない指摘。
だが、篠原にとっては、内側の充血を見透かされたような居心地の悪さを伴った。
「会議室の空調が、少し効きすぎていたようですから」
「ああ、確かに。では、失礼します」
久慈は軽く会釈をして去っていった。
彼女の背中を見送りながら、篠原は小さく息を吐き出す。
同じ「被験体」でありながら、彼女は医師としての日常を平然と歩んでいる。その対比が、篠原の疎外感をより深めた。
委員長室に戻ると、篠原は重い扉を閉め、ようやく仮面を外した。
時刻は午後5時を回っている。窓の外は夕闇が迫っていた。
「……落ち着きなさい」
誰もいない部屋で、自分自身に命令する。
デスクの椅子に深く沈み込み、デスクの下で、強張った太腿同士をゆっくりと擦り合わせた。
スカート越しに伝わる摩擦熱で、会議中から続く疼きを誤魔化そうとする。
これは生理現象だ。ただの神経の誤作動だ。
そう論理づけても、脳の報酬系は静まらない。
その時だった。
ブルリ、と。
デスクの上に置いたスマートフォンが、無機質に震えた。
「……っ!」
ただの着信振動。
それだけのことなのに、過敏になった神経はそれを「電気刺激」の予兆と誤認し、篠原の身体はビククリと大きく跳ねた。
恐る恐る画面を見る。
通知センターに表示された名前は、『深雪』。
『件名:Re: 局所的なエラー修正について
結論から申し上げますと、理論上は可能です。
脳全体を鎮静させる既存薬ではなく、異常発火を起こしている特定の回路に対してのみ、ピンポイントで抑制・相殺するアプローチを検討しています。
ただし、この処置を確立するためには、貴女の脳が現在、微弱な入力に対してどれほどの出力を返しているのか、その正確な『増幅率(平常時のベースライン)』を数値化する必要があります。容量を見誤れば、脳回路に致命的なダメージを与えるリスクがあるためです。
測定は、以前ご合意いただいた「長期的な再現性確認」の初期フェーズとして実施します。
今回は体内へのデバイス(多点センサー)は使用しません。頸部に測定用のパッチ(AS-09)を一枚貼付し、三十時間ほど平常時のデータを取るだけの簡易的なものです。
ご都合の良い夜間の日程をお知らせください。
ご連絡お待ちしております。
深雪』
篠原は画面を見つめたまま、小さく息を吐き出した。
(……体内へのデバイスは、使わない)
パッチを貼って、三十分だけ。
その条件が、彼女の警戒心を大きく引き下げた。それならば、ただの表面的な検査と何も変わらない。知性を守るためにも、一刻も早くこの数値を測らせて「治療」へと進むべきだ。
何より――会議中から股間の奥で燻り続けているこの「熱」が、数日先の予約まで待つことを、とうてい許容できそうになかった。
篠原は小さく息を吸い込むと、デスク上の内線電話を引き寄せ、受話器を取った。
慣れた手つきで第3研究室の番号をプッシュする。
数回のコールの後、ガチャリと通話が繋がり、静かな声が応答した。
『はい。第3研究室』
「……篠原よ。メール、読んだわ」
篠原は努めて平坦な、いつもの冷徹な「委員長」の声を作った。
だが、無意識のうちに組んだ足にぎゅうっと力がこもる。
「三十分のデータ取りと、その新しい治療アプローチについて……少し詳しく話も聞きたいのだけれど」
『ええ。構いませんよ』
「もし可能なら――今日の夜、今からでも構わないかしら」
少しの沈黙。
やがて、受話器の向こうで、深雪が微かに微笑んだような気配がした。
『……ええ。お待ちしております、委員長』




