第107話 深雪からの解析レポート
翌日、午後。 委員長室。
デスクに向かう篠原美沙子は、手元の決裁書類にペンを走らせていたが、その動きは緩慢だった。 視界の端を走るノイズ。 背筋を這うような、ありもしない「幻覚」。 それらを意志の力でねじ伏せながら業務を遂行していた彼女の手元で、スマートフォンが短く震えた。
ブブッ、という無機質な振動音。
篠原はペンを止め、画面を確認する。 表示された差出人は『深雪』。 昨夜送った「薬物療法の拒絶」に対する、正式な回答だ。 彼女は周囲に誰もいないことを確認し、ゆっくりとロックを解除する。
そこに記されていたのは、挨拶や感情を一切排した、冷徹な「解析レポート」だった。
『件名:Re: 検証結果と原因について』
篠原様
薬物療法による鎮静を拒否された件、承知いたしました。 パフォーマンス維持を最優先とする貴女の判断を尊重します。
代替案の提示に先立ち、先日の治験データを再解析し、現在の貴女に起きている症状(思考ノイズ・脊髄への幻覚・発熱)の医学的根拠を特定しました。 添付の臨床ログ(Fig_1.pdf)をご確認ください。
1. 臨床ログの異常:『垂直の立ち上がり』と『凪』 先日の実験時、貴女の報酬系(VTA-NAc回路)が記録した**「波形の形状」**に、構造的な異常が見受けられます。
異常A:予測曲線を無視した『垂直の立ち上がり』 通常、快楽や興奮の信号は、入力に対して緩やかな放物線を描いて上昇します。 しかし、貴女の波形は**「垂直」です。 これは、物理的な刺激が到達するよりも速く、脳が「来る」と確信して、瞬時に受容体を開放していることを示します。いわば、思考の速度を超えた「予測誤差の消失(直結)」**です。
異常B:抑制反応の欠落による『凪』 通常、過剰な刺激に対して脳は本能的に防御(抑制)を行いますが、貴女のグラフにはその「下振れ」が一切なく、不気味なほどのフラット(凪)状態です。 これは理性のブレーキが壊れているのではありません。 回路の伝達速度があまりに速すぎるため、理性の抑制が追いつかず、**「抵抗する間もなく信号が通り抜けている」**状態です。
2. 物理的な変質:『ハードウェアの書き換え』 なぜ、このような波形になるのか。 それは、貴女の神経回路そのものが物理的に変化しているからです。
シナプス長期増強(LTP): 中脳腹側被蓋野から側坐核への投射経路において、不可逆的な結合強化が確認されました。 これは心理的な「依存」ではありません。繰り返された電気刺激によって、神経の配線そのものが、強固に**「書き換わって」**しまったのです。
3. 発生時期の特定:『特異点』 この変質は、最近始まったものではありません。 ログを遡った結果、最初の接触――**【多点センサー実験】の直後から、既に微細な変化が始まっていたと推測されます。 貴女の脳(受容体)は、あの電気信号と異常な親和性を示し、たった一度の接触で、眠っていた扉をこじ開けてしまった。いわば、「事故的な覚醒」**です。
結論: 現在感じている「ノイズ」は、この書き換わった回路(垂直な立ち上がり)が、刺激のない日常でも発火しようとして起きている**「アイドリング振動(空転)」**です。 これは精神的な問題ではなく、**脳神経の物理的な「配線ミス(誤接続)」**です。
現状のデータから想定されることは以上です。 質問があれば返信ください。
深雪
読み終えた篠原は、強張っていた肩の力を、ふぅ、と抜いた。
「……物理的な、配線ミス」
その言葉が、妙に腑に落ちた。 私は、精神的に堕ちたわけでも、理性が崩壊したわけでもない。 脳全体が異常なわけではないのだ。 ただ、一部の回路が物理的に「誤接続」を起こしているだけ。 機械が故障したのと何ら変わらない。
(……よかった。私はまだ、正常だわ)
生活に支障はある。ノイズも渇きも鬱陶しい。 だが、原因が「ハードウェアの故障」だと分かれば、対処のしようはある。 未知の恐怖が、既知の不具合へと変わった瞬間、彼女の中に確かな安堵が広がった。
だが。 続く項目に目を走らせた時、その安堵は一瞬にして凍りついた。
『発生時期の特定:**【一回目の多点センサー使用】**という特異点』 『たった一度の接触で……事故的な覚醒』
「……やはり、そう」
篠原は、先日深雪に送ったメールを反芻する。 『実は、一回目の実験の後から、ずっと違和感が残っていました』 自分でそう認めた通りだ。 原因は間違いなく、あの最初の接触にある。
けれど、改めて突きつけられると、戦慄が走る。 なぜなら、あれは――
(……あれは本来、膣内に入れるような機械じゃない)
脳裏に浮かぶ、無骨なセンサーの形状。 露出した電極。冷たいシリコンの感触。 あれはあくまで「体表用」の計測機器だ。女性の、ましてや最もデリケートな最奥に挿入するために作られた玩具ではない。
「なんで……私だけが」
篠原は、自分の下腹部を無意識に押さえた。 あの日、私の身体は、あの無機質な異物を拒絶しなかった。 痛みの代わりに、脊髄を駆け上がるような「同期」を感じてしまった。 まるで、失われた半身を迎え入れるかのように、あの冷たい機械を最奥で**「許容」**してしまったのだ。
けれど、まだどこかで信じたくない自分がいる。 たった一度の過ち。あれは偶然だったのではないか、と。
だが、次の瞬間に脳裏をよぎった記憶が、その逃げ道を完全に塞いだ。
(……いいえ。偶然じゃない)
思い出すのは、**【二回目にセンサーを使用した夜】**のことだ。
あの時、私はどうなった? 抵抗できたか? 理性を保てたか? ――否だ。
センサーが挿入され、スイッチが入った瞬間。 私は、自分でも信じられないほどの**「狂乱」**に堕ちた。 思考する間もなく、恥じらいもなく、ただ獣のように腰を跳ねさせ、涎を垂らして快楽を貪った。
『異常A:予測曲線を無視した垂直の立ち上がり』 『異常B:抑制反応の欠落』
メールに記された冷徹な分析が、あの夜の自分の醜態と、恐ろしいほど合致する。 あれは、理性が弱かったからではない。 **「スイッチが入った瞬間に、脳が垂直に沸騰した」**からだ。 ブレーキを踏む暇さえ与えられず、私は壊れたのだ。
「……っ」
あの二回目の狂乱こそが、私の脳が不可逆的に「書き換わっている」ことの、何よりの証明だった。 否定したいはずの思考とは裏腹に、身体が正直に反応する。 機械との適合を示唆されただけで、太腿の奥が熱く疼く。 その熱こそが、私が「許容した側」の人間であるという、逃れられない刻印だった。
(……認めざるを得ないわね)
篠原は小さく息を吐き、震える指先を強引に鎮めて、返信画面を開いた。 原因が分かった以上、もう逃げ場はない。 これは「治療」ではない。 人間としての規格を逸脱してしまった、私の不始末の処理だ。
送信:深雪 『解析結果、拝読しました。 その「物理的な配線ミス」という仮説が事実だとして。 私の理性や人格を損なうことなく、この局所的なエラーのみを修正することは可能ですか?』
送信ボタンを押す。 それが、彼女の精一杯の「同意」だった。




