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女医乃深雪の記録ー快楽の追及ー日常侵食編  作者: 女医乃深雪


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第106話 臨界

 午後三時。  委員長室。


 分厚い防音ガラスで隔てられた執務室には、空調の低い駆動音だけが満ちていた。  デスクに向かう篠原美沙子は、手元の決裁書類にペンを走らせていた。  端から見れば、それはいつも通りの冷徹で完璧な「委員長」の姿だったろう。

 だが、その内実は、崩壊寸前のダムを指一本で支えているようなものだった。

「……遅い」

 思考の回転ではない。書類を読み解く視線の速度が、通常の半分にも満たないのだ。  文字を目で追うたびに、視界の端に白い砂嵐のような「ノイズ」が走る。  意味のある文字列が、脳内でうまく結像しない。


 ――集中しなさい。こんな程度の揺らぎで。


 篠原は眉間を揉み、温くなったコーヒーを喉に流し込んで、無理やり意識を覚醒させる。  長年の経験と、元来の優秀さ。それらを総動員して、湧き上がる雑音をねじ伏せ、なんとか業務を進行させていた。  だが、その「ノイズ」の正体は、単なる疲労ではないことを彼女自身が一番よく理解していた。

 背筋を、ありもしない電流が駆け抜ける。

 ビクリ、とペンの先が紙の上で跳ねた。  何も触れていないはずの脊髄のライン。そこから脳幹へと至る経路に、あの無機質な「多点センサー(Type-66)」が張り付いているかのような、鮮明な幻覚(ファントム)。  物理的なデバイスはもう外されているのに、神経だけがその形状と、それがもたらした過剰な信号を記憶し続けている。


(……これは、期待、なのか?)


 篠原は、震える指先を隠すように書類を握りしめた。  この身体は今、あの異常な「125%」の状態を、自らの力で呼び戻そうとしているのではないか。  外部からの入力がないことに焦れ、自家発電のように「再現性」を求めて、回路が勝手に発火しようとしている。

 それは恐怖であり、同時に否定しがたい甘美な誘惑でもあった。

 篠原は視線を動かし、デスクの端に置かれたスマートフォンを確認する。  画面は暗いままだ。通知はない。  あの「データ確認」のメールから、すでに丸三日が経過している。


(治療法が見つからないの? それとも……)


 放置されている。  その事実が、渇いた喉に塩を塗るような焦燥感を生む。  深雪は何かを見つけたはずだ。私の脳の深淵を覗き込み、その対価として「管理」を提案してくるはずではなかったか。

 椅子の座面が、嫌な熱を持って蒸れているのを感じた。  篠原は誰にも見えないデスクの下で、組んだ足を強く引き締める。  ストッキングに包まれた太腿の内側同士を、ゆっくりと、しかし確かな圧力で擦り合わせる。

 衣擦れの微かな音が、静寂の中に響く。  その物理的な摩擦で、脳内を暴れ回る「再現性への渇望」を、必死に散らそうとするかのように。


「……早く」


 その時、デスクの上のスマートフォンが短く震えた。

 ブブッ、という無機質な振動音が、張り詰めた執務室の空気を裂く。

 篠原は弾かれたように顔を上げ、即座に端末を掴み取った。

 画面に表示された『深雪』の二文字。

 待ちわびていた連絡に、心臓が早鐘を打つ。彼女は一度大きく深呼吸をして、震える指先を落ち着かせてからロックを解除した。


『件名:Re: 解析データの件と、今後の治療方針について』


 本文は、予想に反して丁寧かつ事務的なものだった。


『返信が遅れて申し訳ありません。緊急のオペと外来が重なり、解析データの精査に時間を要していました。』


「……そう。忙しいのね」


 篠原は短く呟き、納得しようと努める。


 彼女は優秀な外科医だ。私のような個人的な「検体」にかかりきりになれるはずがない。


 だが、その正当な理由が、篠原の胸に巣食う「放置された孤独感」を逆に煽る。


 私は、後回しにされたのだ。


 メールは続く。ここからが本題だった。


『現段階では、脳の可塑性を根本から書き換える「完治」の方法は確立できていません。


 ですが、既存の薬物療法――ドーパミン受容体拮抗薬や、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)等の多剤併用であれば、その異常な興奮(ノイズ)を強制的に抑え込める可能性はあります』

 提示された薬剤の羅列を見た瞬間、篠原の表情が曇った。

 彼女自身、医師免許を持つ専門家だ。それらの薬が中枢神経に何をもたらすか、痛いほど理解している。

「……これを飲めば、確かに『熱』は下がるでしょうね」

 だが、代償は大きい。

 思考速度の鈍化。認知機能の低下。感情の平坦化。


 いわゆる「鎮静(セデーション)」状態だ。


 学園都市の委員長として、分単位で膨大な決裁を下し続ける今の自分にとって、パフォーマンスの低下は致命傷になりかねない。


(……仕事にならないわ。却下よ)


 篠原は理性の声に従い、拒絶の返信を打ち込み始める。

『提示された薬物療法は、副作用による認知機能低下のリスクが高く、現職務への支障が懸念されます。

 現状のパフォーマンスを維持したまま制御可能な、他の治療法の検証をお願いします』

 送信ボタンを押す指が、わずかに汗ばんでいた。

篠原は、無機質な送信完了の表示を見つめ、小さく息を吐く。  薬物療法の拒絶。  それはあくまで、学園都市統括理事会委員長としての、合理的かつ冷徹な判断だ。  副作用による思考の鈍化(セデーション)は、現在の激務において許容できるリスクではない。  それだけの話だ。

 だが、デスクの下では、無意識に足が組み替えられていた。

 タイトスカートに包まれた太腿の内側同士を、ぎゅう、と強く押し付け、ゆっくりと擦り合わせる。  摩擦の熱で、行き場のない身体の芯の疼きを、ごまかすように。


「……私は、最適な解を求めているだけ」


 脳内のノイズを消し、かつパフォーマンスを維持する。  その両立が可能なメソッドを、深雪に要求したに過ぎない。  そこに、個人的な感情や、不純な期待などが入り込む余地はない。


 篠原はそう結論づけ、熱を帯びていく下半身の感覚を意識から切り離すと、再び決裁書類へと向き直った。

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