第105話 未知数のスペック
深夜の研究室。
深雪は、デスクに広げられた篠原美沙子の臨床データ(第86話ログ)を、渋い顔で見下ろしていた。
「……足りない」
原因は特定した。
『多点センサー(Type-66)』による、ハードウェアの不可逆的な書き換え。
現状も把握した。
出力『125.0%』の暴走状態。予測誤差による垂直発火。
――だが、それだけだ。
今手元にあるのは、あくまでセンサーが拾った「結果」に過ぎない。
変異の「場所」は推測できている。中脳腹側被蓋野(VTA)から側坐核に至る神経伝達経路(配線)の異常と、報酬系の中枢たる側坐核そのものの変質だ。だが、その物理的な『容量』が、完全にブラックボックスのままだ。
深雪は、モニターに映し出そうとした脳機能画像や神経線維画像のオーダー画面を、無造作に閉じた。
そんなもので「側坐核が光りました」「配線が太くなっています」と確認したところで、それはすでに分かりきっている「見た目」の変化に過ぎない。
知りたいのは、その高密度化した側坐核というエンジンが、物理的にどれだけの馬力を叩き出せる容量を持っているかという、性能(定量データ)だ。
敵の戦力も知らずに抑制薬を投与するなど、目隠しで爆弾処理をするようなもの。
中途半端な介入は、逆流を招き、彼女の精神を破壊するだけだ。
「……測るしかないわね。彼女の神経の『増幅率』を」
深雪は電子ペンを走らせ、ホワイトボードにシンプルな数式を書き殴った。
『 Output(反応) ÷ Input(刺激) = ???% 』
通常、人間の体は「抵抗の塊」だ。
外部から微弱な信号(Input 1)を与えても、皮膚や神経線維の抵抗で減衰し、脳に届く頃にはノイズとして消える。つまり、答えは数%(減衰)になるのが正常だ。
だが、今の篠原美沙子はどうだ。
彼女が訴える「ノイズ」――何もしなくても身体が疼くという現象。
それは、すでに特定できている異常部位への配線が、抵抗ゼロの超伝導状態となって信号を垂れ流し、あまつさえ変質した側坐核がそれを勝手に「増幅」している証拠に他ならない。
「大掛かりなMRIなんていらない。……パッチ一枚あればいい」
深雪は、手元の『高密度神経接続パッチ(AS-09)』を指先で弾いた。
原理はシンプルだ。
前回と同じ条件のもと、このパッチをうなじに貼り、人間が感知できないレベルの極微弱なパルス(Ping)を、一瞬だけ送る。前回の暴走が偶然のノイズではないことを証明する、極めて純粋な『再現性』の確認だ。
もし彼女が正常なら、何も感じない。
だが、もし彼女の脳の容量が常人を遥かに逸脱しているなら――その微弱な信号は神経線維の抵抗を一切受けずに脳幹を抜け、側坐核で莫大なエネルギーへと変換され、増幅された巨大な快楽指令(Echo)として身体へ跳ね返ってくるはずだ。
深雪は、新たな解析プロジェクト『Project: Resonance(共振解析)』を立ち上げた。
この応答率(%)さえ確定すれば、彼女の脳内で「配線」がどれほど太くなり、「側坐核」がどれほどの容量へ巨大化したか、すべて逆算できる。
「……この『絶対的な数値』が揃って初めて、私たちは彼女の『治療』というスタートラインに立てる」
深雪は一息つくと、既存の医学論文データベースをスクロールし始めた。
画面に次々と表示されるのは、現代医療が抱える「敗北」の歴史だ。
「……どれも、対症療法ばかり」
深雪は小さく息を吐く。
薬物依存症。難治性てんかん。持続性性喚起症候群(PGAD)。あるいは、原因不明の中枢性疼痛。
これらの患者に対し、今の医学ができることはあまりに少ない。
脳内の回路が暴走しているなら、薬で感覚を鈍らせるか、最悪の場合、外科的に切断して機能を奪う。
それは「治療」ではなく、単なる「鎮圧」だ。
「なぜ、治せないのか。それは私たちが、脳の『制御権』を持っていないから」
神経伝達物質を、どのタイミングで、どれだけの量、どこへ流すべきか。
その複雑なアルゴリズムが解明されていない以上、私たちは手探りでスイッチを弄っているに過ぎない。
深雪の視線が、ホワイトボードに書き殴った数式へと戻る。
電気信号を、彼女の脳は受け入れ、あろうことかハードウェアを物理的に書き換えることで「適応」してしまっ た。
「……彼女は、壊れているんじゃない。進化したのね」
もし、彼女の脳が獲得したこの異常な「増幅率」の正体を、数値として完全に把握できれば。
莫大なエネルギー(暴走する信号)を、脳がどのように受け止め、処理しているのか、その「適応メカニズム」を突き止めることができる。
上限の分からないエンジンを制御することはできない。だからこそ、まずは限界値を測る必要があるのだ。
そのメカニズムを解明し、暴走する信号を「鎮圧」するのではなく「制御」し、あるいは別のエネルギーへと変換する術を手に入れれば。
薬物中毒者の渇望回路を、正常な配線へと物理的に上書き(オーバーライト)する技術。
てんかん発作の電気嵐を、無害な信号へと変換してアースする技術。
それは、何千万人もの患者を救う「万能薬」になり得る。
「……やる価値はあるわ」
深雪は、先ほど作成したばかりの『Project: Resonance(共振解析)』のオーダー表を、さらに大きなマスターフォルダへとドラッグした。
ファイル名は『Project: Neural Control(神経制御機構の解明)』。
これは単なる好奇心ではない。
人類が次のステージへ進むために必要な、避けては通れない通過儀礼だ。
そのための「最初の被験者」として、彼女ほど適任な人間はいないだろう。
「篠原さん。あなたの異常な数値は、これからの医学にとって、かけがえのない礎になる」
深雪は画面上の「送信」ボタンに指をかける。
その瞳には、研究者としての純粋な熱意と、目的のためなら手段を選ばない冷徹な光が混在していた。
「……もっとも、その過程で、あなた個人の尊厳が守られるという保証は――どこにもないけれど」
カチ、と乾いたマウスのクリック音が、静まり返った研究室に響いた。
送信完了のバーが、未来へのカウントダウンのように伸びていく。
それを見届け、張り詰めていた思考が少しだけ緩んだ。
ふと、彼女の視線が、研究室のさらに奥――厳重なセキュリティに守られた、深雪以外には決して開くことのできない一室へと向けられた。 そこには、かつて採取し、培養を続けている**「彼ら(触手)」**が眠っている。
「……良い子にしてるわね」
ガラス越しには見えないが、モニターの数値は安定を示している。 培養を続けているその検体は、決して放置されているわけではない。 適切な温度、適切な栄養、そして厳重な隔離措置。 あくまで「維持」の状態にある。
今のところ、危険はない。 彼らは水槽の中で静かに揺蕩い、私の管理下で生かされている。 ただ、私一人の手では、絶対的に時間が足りないのだ。 彼らを生かすことはできても、意のままに操る「完全なコントロール」の領域には、未だ至っていない。 まだ、私の言うことを聞く段階ではないのだ。
だが、無駄に時間を過ごしていたわけではない。 自動解析にかけていた成分データ――彼らが分泌する**「特異な神経毒」**の解析だけは、ある程度の段階まで進んでいる。
深雪は、手元の端末でその毒性データを呼び出し、冷ややかな瞳で数値を追った。
「強力な鎮静作用と、相反する興奮作用の混合……」
この毒は、薬になるか、それとも劇薬になるか。 篠原委員長の、あの暴走する脳を鎮める「治療」に役立つのか。
「……もしくは」
深雪は言葉を濁し、口元だけで微かに笑った。 その先にある可能性は、まだ誰にも――神にさえも、分からない。 ただ一つ確かなことは、この研究所には、彼女を迎えるための「材料」が、揃っているということだけだ。




