第113話 絶対上限への照準
時計の針は、夜の十一時を回っていた。
大学病院の静まり返った研究室。モニターの光だけが点滅していた部屋で、女医乃深雪はデスクの上の作業灯を点灯させた。
無影灯の白く冷たい光に照らされているのは、次回の治験で使用する『多点センサー(Type-66)』。無機質な医療用シリコンで覆われた、三又のデバイスである。
深雪は極細のピンセットと専用のツールを手に取ると、その三又のベースユニットの左右側面に、新たな小型の電極を一つずつ慎重に組み込み始めた。
これまでの治験において、メインとなる三又のデバイスは、膣内深部やGスポットといった「粘膜の表面」に密着し、面で快楽を測定するための構造だった。だが、今回追加する二つの小型ノードのターゲットは、粘膜の表面ではない。
『陰核脚』。
一般的に体外に露出している部分陰核は、全体から見れば数ミリの先端(亀頭)に過ぎない。その真の本体は、骨盤の奥深くに隠されている。恥骨のアーチに沿って左右に二股に分かれ、逆V字型に体内の奥深くへと根を張る、巨大な神経の塊だ。
極度の興奮状態において大量の血液を溜め込み、膨張するこの最大の快楽器官は、体内で膣壁を外側から包み込むように位置している。
現在、常人の1.2倍にまで高密度化し、常にアイドリング状態でノイズを発し続けている篠原の異常な報酬系。その脳と連動するように、この巨大な神経層もまた、かつてない規模で充血し、過敏な熱を帯びているはずだ。
深雪の指先が、ミリ単位の精度で左側のノードを固定する。
手術のような大掛かりな物理的接触は必要ない。この二つの小型ノードは、デバイスの挿入後、左右の膣壁に密着するように展開する。そして、メスを入れる代わりに、壁越しに電気信号を撃ち込むのだ。
神経の塊そのものを導電体として利用し、表面の粘膜を焼くことなく、根元全体を直接共鳴させる。
篠原から見れば、前回と同じように通常の測定デバイスをセットされるようにしか見えないだろう。しかし、ひとたびシステムが起動すれば、深雪の手元のプログラム操作一つで、見えない二つの照準が、彼女の最も深く巨大な器官へと完全にロックオンされる。
「……これで、インターフェースの物理的な最適化は完了ね」
深雪は、左右に二つの電極を追加され、より機能的な形状へとカスタマイズされたデバイスの仕様をシミュレーターに入力し、実行キーを叩いた。
だが、モニターに表示されたのは美しい予測グラフではない。
『Error:Unpredictable Output(予測不能)』
無機質なエラーログが画面を埋め尽くす。
無理もない。汎用の医療シミュレーションソフトでは、これ以上の計算が追いつかないのだ。
神経の塊である陰核脚に直接パルスを撃ち込むという物理的な仕様だけなら、計算はできる。だが、そこに篠原美沙子という個体が持つ「素質」と、この多点センサーが生み出す悪魔的な「相性(Compatibility)」の変数を掛け合わせた途端、導き出される情報量はあっさりとシステムの処理能力をオーバーフローしてしまう。
「……シミュレーション不能か」
しかし、深雪の顔に落胆はない。むしろ、その冷徹な唇には微かな満足の弧が描かれていた。
机上の計算機が弾き出せないということは、それこそが彼女の脳が医学の常識を凌駕した特異点である何よりの証明だ。
肥大化した巨大なエンジン(報酬系)と、神経の根元を直接ハッキングするインターフェース。この二つが完全に接続された時、何が起きるか。明確な波形は予測できずとも、結果は火を見るより明らかだった。
気絶という安全装置は作動しない。ただひたすらに、限界のその先、底なしの未知の領域へと彼女の脳は加速し続ける。
間違いなく、今の医学では観測されたことのない『マックスのデータ』が採れるはずだ。
深雪はエラー画面を静かに閉じると、滅菌ケースの中で眠る二つの新しい電極――篠原を未知の快楽へと突き落とすための新たな「鍵」を、愛おしむように見つめた。




