第102話 正規の手続き
カーテンの奥で衣擦れの音が止む。 篠原はブラウスのボタンを全て留め、ジャケットの襟を正してから、努めて冷静な顔を作って出てきた。 だが、その頬にはまだ微かな朱色が残っており、整えたはずの呼吸も、どことなく浅い。
「……お疲れ様でした、委員長」
深雪はデスクで出迎え、椅子を勧めた。
「いかがでしたか? 久しぶりに、あの台に上がった感覚は」
篠原は椅子に座り、足をきっちりと揃えた。膝の上でバッグを抱える手には、力がこもっている。
「……そうね。やはり、少し緊張したわ」
彼女は視線を少しだけ逸らし、言い訳のように続けた。
「機械も使っていないのに、妙な圧迫感があって……その緊張のせいで、身体が少し、反応してしまったかもしれないわね」
「なるほど。緊張、ですか」
深雪は相槌を打ち、核心を突いた。
「特に反応が顕著だったのは……やはり、あの『多点センサー』を見せた時でしたか?」
「……ッ」
その単語が出た瞬間、篠原の眉がピクリと動いた。
「……そ、そうね。少しよ、ほんの少し」
篠原は咳払いを一つして、必死に小さく見せようとした。
「あれを見ると、以前の不快な記憶がフラッシュバックするのよ。だから、拒絶反応が出ただけだわ」
「ふむ……」
深雪は眼鏡の位置を指で直し、手元のメモには目をくれず、篠原の顔を真っ直ぐに見つめた。
「私の『視察』では……委員長が気にされている通りの、**『少し過剰な反応』**が見受けられましたが」
「……え?」
「内腿の筋肉の痙攣、皮膚の紅潮。……今日は通電もしていませんし、お薬も使っていません。それでも、あれだけの反応が出たのです」
「……っ」
篠原は言葉を詰まらせた。 「そんなの、あれだわ」と反論しかけた言葉を飲み込む。 深雪は淡々と、しかし決定的な事実として告げた。
「やはり、いずれ詳しい検査が必要かと存じますが……」
深雪の診断に、篠原はジャケットの襟を正しながら、努めて強い口調で返した。
「当然よ。検査も、その後の解決策も……きちんと考えてくれるわよね? 元はと言えば、あなたが……」
私の身体をこんな風にしたんだから。 そう言おうとした篠原の言葉を、深雪は柔らかく遮った。
「もちろんです。委員長がそこまでお困りなのですから、開発者として尽力させていただきます」
深雪は手元の端末を操作しようとして、ふと手を止めた。 そして、確認事項として何気なく尋ねた。
「では、すぐにカルテを作成しますが……確認です。これからは**『正規の患者』**としての登録で、よろしいですね?」
「……う」
篠原の言葉が詰まった。 正規の患者。 それは、病院のサーバーに「篠原美沙子」の名前と、「性的感覚の異常」や「異物依存」といった詳細な病状が記録されることを意味する。
(……それは、まずいわ)
もし誰かに見られたら。倫理委員会の監査が入ったら。 委員長である自分が、こんな恥ずかしい症状で治療を受けているなどと知れ渡れば、社会的地位は終わる。
「……待って。それは……困るわ」
篠原は視線を泳がせ、声を潜めた。
「立場上、そのような記録が残るのは……不都合なの」
「ですが、医療行為を行う以上、記録は必須です」 「そこを何とか……内密にできないの?」
篠原は身を乗り出し、縋るように訴えた。
「あなたの研究室だけで処理する、非公式なデータとして……今まで通り、扱ってちょうだい。外部には一切漏れないように」
それは、自ら「闇医者の裏治療」を懇願するようなものだった。 深雪は眼鏡の奥で、計算高い光を一度だけ閃かせ、それから困ったように溜息をついてみせた。
「……なるほど。裏カルテ、ということですね」




