第103話 『再現性(リプロダクibility)』
「……なるほど。裏カルテ、ですか」
深雪は少しだけ椅子を回し、困ったように眉尻を下げてみせた。
「承知いたしました。委員長の社会的地位を守るため、公式な記録には残さず、私の個人の研究データとして処理しましょう。……その代わり、安全性やリスク管理は全て私の裁量となりますが、よろしいですね?」
「……ええ。背に腹は代えられないわ。任せる」
篠原は短い言葉で承諾した。 倫理委員会のトップが、性的倒錯の治療を受けているというスキャンダルだけは、何としても回避しなければならない。
「ありがとうございます。では、治療方針についてですが……正直に申し上げますね」
深雪は手元のタブレットを操作し、複雑な脳波のグラフを表示させた。
「今回の委員長の症状――特定の感覚入力による神経回路の書き換えと、それに伴う過剰な依存性ですが……これは、極めて稀な症例です」
「……でしょうね」
篠原は苦々しげに頷いた。自身の知識に照らし合わせても、聞いたことがない。
「ご存知のように、医学会において『快楽による脳の変質』といった再現性の低い症例は、単なる精神的な問題や、個人の嗜好として片付けられがちです」 「ええ、よく知っているわ。原因不明で『ストレスでしょう』と放置されるのがオチね」
篠原は自嘲気味に返した。 確立された治療法がない以上、手探りでやるしかないことは、元医師である彼女自身が一番理解していた。
「ですから、すぐに解決できる……魔法のように元通りになるとは、考えないでください。我々でデータを積み上げ、最適解を見つけるしかないのです」 「理解しているわ。……長期戦になる覚悟はある」
「頼もしいですね。では、治療の第一歩としてデータの精査を行いますが……」
深雪は眼鏡の位置を直し、篠原の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「科学的データを扱う上で、最も信頼性を担保するものは何か……釈迦に説法ですが、ご存知ですよね?」
その問いに、篠原は嫌な予感を覚えつつも、医学的な正論として答えないわけにはいかなかった。
「……『再現性』、でしょう?」
「その通りです。前回のデータが偶然の産物ではないことを証明し、正確なベースラインを確定するためには……前回と同じ条件、同じ刺激を与えた時に、脳がどう反応するか。これを再確認する必要があります」
深雪はさらりと、しかし逃げ場のない論理で告げた。
「つまり、もう一度あのセンサーを用いて、同じ負荷をかけることになります。……これは診断の必須条件になりますが、平気ですか? 委員長」
「……再現性、ね」
深雪の口からその単語が出た瞬間、篠原は無意識に脚を組み直した。 脳裏に過ったのは、あの台の上での感覚だ。 医学的な用語だと分かっていても、身体の深層が勝手にその意味を翻訳し、わずかに筋肉が強張る。
「……ええ、分かったわ。医学的に必要だと言うなら、否定はしない」
篠原は表情を崩さず、淡々と答えた。 深雪は一瞬、篠原の手元に視線を落としたが、それ以上は追求しなかった。
「ご理解いただけて助かります。……ただ、今日は機器のセットアップもリセットされていますし、委員長もお疲れでしょう」
深雪はタブレットを置いた。
「実際の『再現実験』は、次回に持ち越しましょう。日程を調整させていただけますか?」
「ええ。……ただ」
篠原は立ち上がり、バッグを手に取った。
「日程の連絡だけど……病院の回線を使うのはまずいわ。記録が残るし、誰が見ているか分からない」
「確かに。裏カルテの案件ですからね」
「連絡は、私の携帯の方にお願い。……アドレスは知ってるわよね?」
「ええ、存じております。以前登録させていただいたものに送りますね」
深雪は手元の端末を確認し、短く頷いた。 余計な確認作業はいらない。すでに回線は繋がっている。
「件名は伏せて、『次回の件』として送ります」 「頼むわ。……じゃあ、今日はこれで」
「はい、お疲れ様でした」
篠原は背筋を伸ばし、深雪に見送られて部屋を出た。 ドアが閉まる音だけが、静かに響く。




