第100話 幻肢痛(ファントム・ペイン)
研究室の空気は、重く澱んでいた。 篠原美沙子は膝の上で拳を握りしめ、目の前の「専門医」を睨みつけた。 深雪は静かに彼女の言葉を待っている。その瞳は、顕微鏡で検体を覗き込む時のように冷徹で、逃げ場がない。
「……誤解しないでほしいのだけれど」
、慎重に言葉を選び出した。
「これはあくまで、神経学的なエラーの報告よ。あなたの設計したプログラムに、予期せぬバグが生じているという事実を伝えに来ただけ。……それ以上の意味はないわ」
「ええ、承知しています。それで、具体的な症状は?」
深雪が手元の電子カルテに視線を落とす。 篠原は一度大きく息を吸い込み、意を決して口を開いた。
「……残っているの。感触が」 「感触、ですか」 「ええ。……仕事中、書類を読んでいる時、あるいはふとした瞬間に……あのセンサーが、『中』にある感覚が鮮明に蘇るのよ」
言いながら、篠原の声が微かに震える。 言葉にするだけで、脳裏にその映像がフラッシュバックし、下腹部が条件反射で反応してしまうからだ。
「もう取り外されているはずなのに。まるで、まだ実験が続いているかのように……あの突起が粘膜を押し広げ、吸着している物理的な圧迫感が、消えないの。……これは明らかに異常だわ」
篠原は訴えた。 これは「痛み」でも「苦痛」でもない。もっとおぞましい「充足感」の記憶だ。だが、それを認めるわけにはいかない。あくまで「不快なノイズ」として処理しなければ、彼女の自我は崩壊する。
深雪は表情一つ変えず、淡々とキーボードを叩いた。
「なるほど。切断された手足がまだあるように感じる『幻肢』の一種ですね」
深雪は顔を上げ、篠原を観察するように見つめた。
「脳の身体図式が、センサー挿入時の状態に強く適応してしまったため、除去後の『空白』を認識できず、記憶データで補完しようとしているのでしょう。……極めて稀なケースですが、理論上はあり得ます」
篠原の訴えを、深雪はあくまで医学的な現象として肯定した。 それが篠原を安心させ、同時に追い詰める。
「では、その幻覚は……委員長にどのような『苦痛』を与えていますか?」
深雪の問いかけは鋭かった。
「幻肢痛という名の通り、通常は痛みを伴うものです。……あなたの場合も、そうですか? 引き裂かれるような痛みや、耐え難い痺れを感じるのですか?」
「……痛み? 痺れ?」 「……ッ」
深雪の問いに、篠原は言葉を詰まらせた。 痛みであれば、どんなに楽だっただろう。鎮痛剤を飲み、歯を食いしばって耐えればいい。 だが、これは違う。
「……痛みじゃないわ。痛みなら、耐えられるもの」
篠原は吐き捨てるように言った。視線は深雪から逸らし、床の一点を見つめている。
「……熱よ。局所的な、熱」
彼女は、自分の身体に起きている惨状を、必死に客観的な言葉へ変換した。
「それに、ノイズが走るの。……あの多点センサーの電気信号みたいな感覚が、フラッシュバックのように脳裏で弾ける」
篠原はこめかみを指で押さえた。
「四六時中というわけじゃない。仕事中や、移動中……ふとした瞬間に、不意にその『信号』が走るのよ。まるで、まだそこに『あれ』が接続されているみたいに」
彼女は深雪を睨みつけた。
「……ノイズ、ですか」
深雪は少しだけ椅子を回し、組んだ足の上で手を合わせた。 あくまで一般論として、冷静に語り始める。
「生物学的な観点から言えば、強烈な快楽体験を脳が渇望するのは、決して異常ではありません。報酬系回路が『もう一度あれを味わいたい』と信号を出す。……それは人間として、極めて自然な反応です」
深雪の言葉に、篠原は少しだけ肩の力を抜いた。 異常ではないと言われたことに、安堵したのだ。だが、続く言葉がその安堵を切り裂いた。
「ですが、委員長。……通常であれば、そこには**『抑制』**が働きます」
「……抑制?」
「ええ。人間には理性があります。『あれは実験だった』『社会的に不適切だ』……そうやって理性がブレーキをかければ、脳は次第にその渇望を『不要なノイズ』として処理し、忘却していくはずです」
深雪は、探るような視線を篠原の瞳に向けた。
「特に委員長は、誰よりも理性的で、強固な自制心をお持ちのはず。……本来なら、一晩寝れば消えている程度の『迷い』で済むはずなのです」
深雪はそこで言葉を切り、少しだけ首を傾げてみせた。
「……それが未だに、仕事に支障が出るほどの熱とノイズとして残っている。……不思議ですね。なぜ、あなたの自慢の理性は、この程度の衝動を抑え込めなかったのでしょうか?」
「……っ」
篠原は言葉を失った。 それは、「お前は欲求に負けたのだ」と指摘されるよりも辛辣な問いだった。 理性が機能していない。ブレーキが壊れている。 その事実を、医学的な「疑問」として突きつけられたのだ。
「……わ、分からないわよ。だから、聞きに来たんじゃない」
篠原は視線を泳がせ、弱々しく反論するのが精一杯だった。
篠原は視線を泳がせ、弱々しく反論するのが精一杯だった。 自分の理性が負けているなどと、認めるわけにはいかない。けれど、身体の熱は嘘をつけない。
「とにかく……このノイズの原因を特定してちょうだい。仕事にならないのよ」
すがるような篠原の言葉に、深雪は少し考え込むような仕草を見せ、それからゆっくりと頷いた。
「確かに……理性の強固な委員長がそこまで仰るのです。脳の状態を、少し物理的に確認しないことには、無責任な診断は下せませんね」
深雪は立ち上がり、残念そうに肩をすくめた。
「ただ、あいにく今日は、メインの生体反応計測装置がメンテナンス中でして……精密な数値測定や、電気的な介入はできないんです」
「……あ、そう」
篠原の表情が、明らかに緩んだ。 あの恐ろしい機械に繋がれなくて済む。今日は話だけで終わるかもしれない、という安堵。 だが、深雪は逃がさない。
「ですが、**『再現』**は可能です」
「……え?」
「脳の記憶は、環境や姿勢に強く依存します。今日は、前回の実験と同じシチュエーション……つまり、同じ場所に座り、同じ体勢をとっていただいて、脳がどう反応するかを『視診』だけで確認しましょう」
深雪は、部屋の奥にある診察台――かつての実験台へと、掌を向けた。
「機械は使いません。ただ、あそこに座って、前回と同じように足を乗せていただくだけです。……それなら、よろしいですね?」
「……座る、だけ?」
「ええ。それでノイズが強まるなら、原因は『環境依存性の記憶』だと特定できますから」
それなら、拒否する理由がない。 断れば、「やましいことがあるのか」と勘ぐられるだけだ。
「……分かったわ。座ればいいのね」
篠原はバッグを置き、重い足取りで歩き出した。 機械はない。電気も流れない。 ただの診察だ。そう自分に言い聞かせながら、彼女は自らの足で、あの屈辱の台へと向かった。




