第99話 唯一の専門医
翌日の倫理委員長室。 篠原美沙子は、デスクの引き出しから小さな薬袋を取り出した。 『抗不安薬』。昨日、久慈真理子が処方してくれたものだ。
「……効かない」
篠原は苛立ちと共に、ボールペンをデスクに置いた。 薬を飲んで数時間が経過している。だが、身体の奥底で鳴り響く警報のような違和感は、少しも静まらない。 むしろ、薬で頭がぼんやりとしたことで、その「ノイズ」はより鮮明に浮き上がってくる。
(……これは、ストレスなんて曖昧なものじゃない)
篠原は眉間を押さえた。 脳裏にこびりついて離れないのは、あの「多点センサー」の形状と、粘膜に吸着する物理的な感触の記憶。 何もないはずの下腹部に、確かな質量を伴った幻覚が居座り続けている。
(……久慈先生には、どうすることもできない)
篠原は冷めた思考で結論を下した。 この症状を、既存の医学用語で説明することは不可能だ。正直に話せば精神科案件にされるか、過去の秘密を暴かれるだけ。 ならば、解決策を持っているのは誰だ?
この不可解な現象の発生条件を知り尽くし、脳への信号入力を設計した張本人。 女医乃深雪しかいない。
(……あの女に頼るのは危険すぎる。でも)
このままでは、いつか会議中や回診中に、幻覚に飲み込まれて倒れてしまうかもしれない。 それは社会的な死を意味する。 ならば、リスクを冒してでも「元凶」に接触し、修正方法(解決の糸口)を聞き出すしかない。 これは屈服ではない。壊れた機械の修理依頼だ。
篠原は意を決し、震える指で内線番号を押した。
『はい、第3研究室です』
数コールの後、涼やかな声が響いた。 篠原は一度息を飲み込み、努めて冷静な声を繕った。
「……私よ、篠原です」 『委員長ですか。……昨日は久慈先生の診察を受けられたそうですね』
深雪の声は平坦で、感情が読めない。
「ええ。ただの過労だったわ」
篠原は短く答え、すぐに本題へと入った。
「ただ、少し確認したいことがあるの。……先日見せてもらった、新型センサーの資料についてよ。構造上の懸念点がいくつか見つかったわ。電話では複雑だから、直接説明したいのだけれど」 『資料について、ですか』 「……それと」
篠原は言葉を詰まらせ、受話器を握る手に力を込めた。
「……その件に関連して、私の体調のことも、少し相談に乗ってもらえないかしら。……専門的な見地から、意見を聞きたいの」
それが精一杯のSOSだった。 電話の向こうで、深雪が沈黙する。拒絶されるか、嘲笑されるか。篠原の心臓が早鐘を打つ。
『……承知いたしました』
しかし、深雪の返答は驚くほど事務的だった。
『開発者として、懸念点の指摘は無視できません。体調の件も合わせ、お話を伺いましょう』
罠の匂いもしない、ただの医師としての対応。 篠原は拍子抜けしつつも、安堵の息を漏らした。
「……そう。なら、後でそちらへ行くわ。今日は話をするだけよ」 『ええ、構いません。デスクを空けてお待ちしております』
篠原は受話器を置いた。 解決できるかもしれない。 あの得体の知れない女なら、このバグを取り除く方法を知っているはずだ。 篠原は白衣を羽織り、すがるような思いで部屋を出た。その足取りは重いが、どこかに微かな希望を含んでいた。
第3研究室の重い扉が開く。 室内に漂うのは、微かなオゾン臭と、冷却ファンの低い駆動音。 篠原美沙子にとって、そこは忌まわしい拷問部屋でありながら、今の彼女の身体が唯一「落ち着く」と感じてしまう場所でもあった。
「お待ちしておりました、委員長」
部屋の奥、無数のモニターに囲まれたデスクから、女医乃深雪が立ち上がった。 白衣姿の彼女は、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。まるで、獲物が自ら網にかかりに来ることを最初から知っていたかのように。
「……失礼するわ」
篠原は強張る足を叱咤し、深雪の向かいの椅子――以前、拘束された診察台ではなく、事務用の椅子――に腰を下ろした。 震える指先を隠すように、持参したファイルをデスクに広げる。
「電話でも伝えたけれど、このセンサーの形状についてよ」
篠原は早口にまくし立てた。沈黙が怖かった。
「この先端部の突起……神経叢への接地面積が大きすぎるわ。これでは、長時間の使用後に、被験者に不必要な『残存感覚』……いわゆる幻覚痛のような後遺症を与えるリスクがあるんじゃないかしら」
それは、篠原自身が今まさに苦しんでいる症状そのものだった。 「自分」ではなく「被験者」という主語に置き換えた、精一杯のSOS。
しかし、深雪は資料を一瞥しただけで、軽く首を振った。
「その懸念はありませんよ、委員長」 「……え?」 「当研究室での臨床データ、および海外の先行研究においても、そのような後遺症の報告例は皆無です。被験者の脳波モニタリングでも、除去後の神経過敏は一時的なもので、数分で消失することが証明されています」
深雪の回答は、完璧な正論だった。 当然だ。普通の人間なら、数分で消える。 消えないのは、脳の深部まで徹底的に書き換えられた(開発された)篠原という個体だけなのだから。
「し、しかし……万が一ということも……」 「構造上の欠陥はありません。安全性は保証します」
深雪は淡々と、しかし断定的に告げ、ファイルを閉じた。 篠原の用意した「鎧」が、あっけなく剥がれ落ちる。 行き場を失った篠原の手が、宙を彷徨った。
「それで」
深雪が身体を乗り出し、篠原の目を真っ直ぐに覗き込んだ。 逃げ場のない視線。
「センサーの問題はクリアになりましたね。……では、もう一つの用件に移りましょうか」
深雪の声が、一段低く、滑らかになった気がした。
「委員長の体調の件ですが……一体、どのようなご相談でしょうか?」
問診が始まる。 それは、久慈の診察室で行われたような形通りのものではない。 篠原の身体に刻まれた「真実」を暴くための、尋問のような問いかけだった。




