上司の提案
別れ際に母親はペコペコと何度も頭を下げた。景吾は手をヒラヒラさせて、
「お気遣いなく。むしろ大したことが出来なくて申し訳ありません」
潤子が頭を深く下げると、母娘はレストランを後にした。
上司には前々からこの日の午後は遅刻すると伝えている。確定申告期間が終わり本来ならば現在は資料の確認の最中で忙しい。景吾はここ十日ほど休まずに一日十時間も働いている。今は息抜きの為に休みの許可が下りている。
景吾が予定通りに職場に戻ると上司の西村が、
「元気になった?」
と、尋ねた。景吾は、
「ええ。おかげさまで」
と、答えた。景吾の隣の席で仕事していた同僚は納税者への愚痴を言いながら器用に仕事をしている。景吾は席について仕事を再開する。何故だか今まで慣れ親しんできた数字や資料に違和感を覚える。他の表現の仕方を考えたり納税額に疑問を持ったり集中が出来なくなっている。その割には不自然な報告内容をいつもより多く発見できた。
悪質な節税と不器用な申告。通常ならば迷わずに追加徴税になりそうな報告内容を狙い撃ちしていたが、今では納税額が高めの申告も気になってしまう。同僚達は電話したり電子メールを送ったりして納税額や担当の税理士に厳しく指摘していく。直接、納税者の所に訪問しに行く者もいる。いつも景吾は事務的に対応しているが、今日は躊躇いがちに気になる所に連絡をとっていく。
夜にやっと仕事が終わると西村が、
「橋本君。具合悪いの?」
と、案じた。西村は四十代の女性で他の男性上司と比べると温和で親切だ。景吾は苦笑いを浮かべながら、
「申し訳ありません。ミスはしていないのですが集中力が下がってしまいまして」
「山を越えたらじっくり休めば?」
西村が提案した。今は猫の手も借りたいほど忙しく休ませるのは難しい。けれども放置は禁物だ。鬱病の可能性が有る。西村は、
「仕事の他に悩み事とか有るの?」
景吾は右手で首の右側を掻き、
「余計な事を考えてしまうのですよ」
「本当に鬱かもしれないね。少しだけ話を聴こうか?」
西村が相談に乗る。景吾は見合いや潤子について話した。西村は景吾の両親について上層部から聞かされているが、同時に依怙贔屓しないようにとも注意を受けてもいる。西村の采配は絶妙なので景吾からも他の部下からも慕われている。
障害者である潤子が執拗に税について質問するので、景吾もつられて気になってしまった。単なる数字と資料が読み解くと雑音として聞こえてくる。その話を聴いて西村は、
「それは戸惑うだろうけれど、良い経験なんじゃないの」
楽しそうに言った。両親と似た様な事を言われて景吾は少し失望したが、叱責されるよりは遥かにマシだ。西村は、
「その方とは私もお会いしたいものね」
景吾は驚いた。西村は不快に思うどころか興味を持っている。西村は、
「またいつか休みをとってその方とお会いすれば?悪い人じゃなさそうだし」




