響編
遅くなって申し訳ありません。
詳しくは活動報告にありますがまだしばらく不定期更新が続きます……
いつからだろう。
生まれた時から傍らにあった半身のことが、わからなくなったのは。
いつだっただろう。
その瞳に映る景色が、自分のものと違うことに気付いたのは。
どうしてだろう。
────君をこんなにも、遠くに感じるのは。
眼下で炎に包まれた車を見て、僕はにんまりと笑った。
うまくいった。これできっと姫ちゃんも喜んでくれる。
「響。誰かが通報したみたい。警察が来るよ、どうする?」
「うーん、ほんとは鎮火してから遺体を確認したかったんだけど……仕方ないか。遅刻だけど学校に行こう。早く姫ちゃんに教えて安心させてあげなくちゃ」
ずいっと手を差し出すと、珠雨はその手と僕の顔とを交互に見て、ややあってにっこり笑った。
「じゃあ、僕は確認して後から追いかけるよ」
「え!? どうして……一緒にいかないの!?」
「今回は響にだいぶ任せちゃったからねー、姫ちゃんへの報告は響に譲るって言ってるんだよ」
「……んー、わかったよ。じゃあ任せた」
ほんとは全然納得してなかったけど、僕は頷いた。何より姫ちゃんに褒めてもらえるなら悪くない。
珠雨は優しいから、きっとそう。
「あ、実行犯の従者は連れて行ってね。万が一特定されたら困るし」
「でもそれだと珠雨の護衛が……」
「だーいじょうぶだって」
破顔一笑、珠雨はひらひらと手を振る。
「ほら早く、姫ちゃん心配してるかもしれないから。僕のことも無事だってちゃんと伝えてよね」
「あーもうわかったよ! ちゃんと後で来てよ!」
手を振り返して、屋上から階段へと続く扉を開ける。
よし、と気合を入れて階段を駆け降り始めた僕の背中を、二つの音が追って来た。
一つは支えを失った扉が閉まる無機質な音。
もう一つは、それに紛れて消えてしまいそうな、小さな小さな声。
────…………
何て言ったかはわからないけど、確かに珠雨の声だった。
多分、気を付けてね、とかだと思うんだけど……何だか少し、気になった。
学校に着いた僕を待っていたのは、悲鳴を上げて逃げ惑う同級生たちだった。
まさか姫ちゃんに何かあった?
慌てて適当な人を捕まえて事情を聞く。
「何これどうしたの!」
「何だよお前知らねぇ…の………ごめんどっち?」
「どっちでもいいだろ! 姫ちゃんは無事なの?」
「あぁ柳は紫崎信者だったなそういえば……」
そこで僕は人選を間違えたことに気付いた。こいつ姫ちゃんを好きじゃない変な奴だ。
「おぉ怖い、睨むなよ。……とりあえず、今朝どうしてかはわからないけど白塚が堕ちたことは知ってるか?」
「知らない。……そっか、とうとう姫ちゃんの想いが伝わって洗脳が解けたんだね!」
白塚澪は、藍原側についてるくせに姫ちゃんにずっと気にかけられてて気に食わない奴だけど、姫ちゃんの願いは白塚を救い出すことだったんだから、喜ばしいことだ。
目の前の彼が歓声を上げた僕を何とも言えない目で見ていたことには気付かず、先を促す。
「それでまぁ、こちらも何があったのかは知らないけど白銀先輩が殴り込みに来てな。全員追い出されたんだ。あの人が本気でキレてるところなんて初めて見た……」
聞いてみると、同じ中学だったらしい。まぁそんなのどうでもいいけど。
「で、姫ちゃんは?」
「橙山たちが一緒だったし無事なんじゃないか? 多分もう少し後ろに────」
「そっかありがとそれじゃ!!」
それだけ聞ければ用はない。説明をぶった切って走り始めた僕は、彼が姫ちゃんを好きじゃない希少人種にも関わらず、不思議とちっとも記憶に残らないことも、その彼が酷く難しい顔をして考え込んだことにも気付かなかった。
「んー……確かに白塚澪が堕ちたのは今朝だよねー。その白塚から瑠衣様のことを聞き出して襲撃までするのは少し無理があるかも……」
そんなことを、呟いていたのも。
「あっ! 響くん!」
朱綾刹那と橙山に庇われながら走ってきた姫ちゃんは、僕を見つけるとぱぁっと顔を明るくした。嬉しい。
「今日は来るの遅かったね? どうかしたの?」
上目遣いで心配そうに見上げて来る姫ちゃんの頭をよしよしと撫でる。
「心配かけちゃった? ちょっと珠雨と姫ちゃんの邪魔になる人を排除して来たんだよ。勝手にやってごめんね」
目を丸くした姫ちゃんの横から、刹那にが低い声で訊いてきた。藍原の兄か? と。
「そうだよ。あともう一人の方は海ちゃんがうまくやってるはず」
「青柳瑠衣……だったか? 藍原でも極秘扱いだったんだろう? 一体どこから持ってきたんだそんな情報」
「なんかねー、海ちゃんが言うには青柳本人が吐いたらしいよ? ほら青柳って藍原と近いじゃん、圧力かけたらこれ幸いとばかりに」
何でもない顔で娘の情報を洗いざらい吐いたという青柳当主夫妻。
うん、誰がこの世界の中心か良くわかってるね。好感が持てる。
うんうんと頷いていると、不意に姫ちゃんが抱きついて来た。抱きついて……って、え!?
「怪我はないっ!? 大丈夫? ヒメのために危ないことしてくれてありがとう」
ぎゅうっと抱きついて顔を上げないまま、そんなことを言う姫ちゃん。
……どうしよう可愛い。
思わずぎゅっとし返そうとして、橙山の冷たい視線に気付いて慌ててやめる。
「大丈夫だよ! そっ……それより、白塚はどうしたの?」
はたと顔を上げた姫ちゃんは、その可愛い顔をしゅんと萎ませた。
「わからないの。突然冬夜先輩が澪くんを殴って……」
混乱したように頭を振った姫ちゃんを宥めすかし、元通り二人に預けて、僕は様子を見に行くことにした。
「頼むよ。遠くに」
「わかった。お前も気を付けろよ」
「ふん。貴様に言われなくとも当然お守り申し上げる」
しっかり頷いてくれた刹那に頷き返し、橙山は無視して、人の流れに逆らって走り出す。
響くん!という悲鳴なような声には軽く手を上げておいた。
心配してくれるんだ。やっぱり姫ちゃんは優しいや。
「なぁんで、白銀先輩は藍原なんかについてるんだろう。姫ちゃんより素敵な女の子はいない上に、あんなに姫ちゃんに愛されてるのに」
角を曲がったところで、とんと何かにぶつかった。
2歩3歩たたらを踏んで、軽く頭を振って体勢を整える。
すみませんと顔を上げた先に。
「それはね柳、俺にとって紫崎さんには何の価値もないからだよ」
にこりと、優等生の笑みを刷いて、立っていたのは。
「俺にとって紫崎さんは別に可愛くも何ともないし、側にいて欲しいなんて一切思わない。少しでも俺の存在が役に立てばなんて痛切に願うこともなければ手が届かないことに歯痒く思うこともない。……燐とは違ってね」
「白銀……先輩」
「そうだよ柳。今ここにいるってことは俺と白塚の様子でも見に来たのかな」
らしくなく乱れた制服で、殴ったせいか傷が残る拳で、それでもいつものように微笑んで。
まるで何もなかったかのように、そこに立つ白銀先輩。
……あれ? でも今、白塚って言った?
白銀先輩は、白塚のこと名前で呼んでたと思うんだけどな。
「そうです。ここで会えたのは僥倖ですね。白銀先輩も早く目を覚まして姫ちゃんに────」
「そうかい? 嬉しいな。俺は今一番、君に会いたくなかったんだけどね」
今、何か。凄く不穏な、気配が。
ひゅっと、耳元で風切り音。
遅れて、頬に微かな疼痛。
「だって────────会ったら殺してしまいそうだから」
恐る恐る振り返る。壁には何も刺さってない。
頬に当てた指には、やっぱり血がついていた。
ゆっくりと視線を下げて行くと、やっとそれらしき物を床の上に見つけた。定規。
「ふふ、びっくりした? でもやらないよ。俺は人間やめてないからね」
人を殺して平気な顔して燐に会うなんてできないからねぇ。
のんびりとした口調で付け足された言葉に、僕は首を傾げるしかない。
「それで? 僕はありがとうとでも言えばいいの?」
白銀先輩は表情の読めない瞳で数拍こちらを見つめ、ややあってどうしようもないものを見るような顔で首を振った。
そのまま僕の横を通り過ぎようとして、思い出したように振り返る。
「そういえば、珠雨くんはどうしたの?」
「え…………なんで、」
「────君が思っているより、君たちを見分けられる人はいるというだけの話だよ」
衝撃に固まったままの僕を置いて、先輩は颯爽と立ち去った。
……嘘でしょう。両親だってたまに間違えるのに?
藍原燐にも見分けられた。どうして。どうして。
『僕のことも無事だってちゃんと伝えてよね』
あれ、そういえば姫ちゃんには珠雨のこと聞かれなかったから伝え忘れちゃった。伝えに行かなきゃ。
混乱を無理やり押しやって、僕は踵を返した。
────
響、どうしたの? え、友達に僕と間違えられた?
なぁんだ、そんなことか。え? そんなことなんかじゃない?
ごめんごめん、馬鹿にしたんじゃないんだってば。
ねぇ、響? 僕らは二人で一つなんだよ。他の誰がわからなくても僕は君が響だって知ってるし、君も僕が珠雨だって知ってる。ね、淋しくないでしょう?
だからほら、涙を拭いて顔を上げて。
いつか僕らを見分けられる友達だってできるかもしれないじゃん。
それまでは、逆に見分けられないことを楽しもう。
騙すみたいでイヤだ? はは、響は優しいな。
……ちょっとは落ち着いた?
そうそう、笑って。僕は響の笑顔が一番好きだよ。
ね、二人で一緒に……を守ろうね。
「もしもし海ちゃん? どうしたの?」
『どうしたの、じゃありませんよ。貴方一体片割れはどうなってるんです!?』
「珠雨? 珠雨なら藍原湊の遺体を確認したら戻って来るって言ってたけど……」
青柳瑠衣の処理をしているはずの海ちゃんから電話があったのは、姫ちゃんのもとへと歩いている途中のことで。
急速に沸き起こった嫌な予感に、僕は息を詰まらせた。
「珠雨が、どうかした?」
『……裏切ったんですよ。姫華を捨てて、藍原燐についた。青柳瑠衣の情報源をリークしたようです』
馬鹿な、そんなはずない!
叫んだつもりが喉から出てきたのは乾いた吐息だけで、人は驚きすぎると声も出なくなるのだと、僕はこの時初めて知った。
生まれた時から傍らにあった僕の半身。誰に理解されなくても、珠雨だけは僕を理解してくれる。そう信じてたのに。
今の僕にはまったく珠雨が理解できなかった。
いつ、電話を切ったのかもわからない。海ちゃんが何やら色々言っていた気もするけど覚えてない。
ふらふらと携帯片手に廊下を歩いていた僕を、横からそっと支える手があった。
「響くん……大丈夫?」
「姫ちゃん……」
心配そうに見上げて来る姫ちゃんの顔を見たら、何だかいろんなものが崩れた気がして。
僕は抱きしめられるまま、何を考えなきゃいけなかったのかも────忘れてしまった。
「せっかく澪くんをオトせたのに、珠雨くんがいなくなっちゃうなんて……まぁ双子の片方はいるし、いっか」