理想と現実(実習)
幹先さんが辞めてから、また就職者はいなくなった。数名の面接を行っている事は知っていたが、全て米原主任がカットしているようだった。
『主任……、今度はある程度施設内容を把握している人をお願いしますよ』
で、今日は新人教育ではない。今日は、ヘルパー二級実習の日なのだ。
朝の朝礼の後、僕は主任に呼び出され、一人の実習生の対応をする事になった。
実習生の名前は、武田 邦一さん。四十六歳のオッサンだ。前に働いていた会社では、それなりに価値のある地位にいたらしく、謙虚さがない。態度が横暴で、偉そうにしている。実習生としての自覚が無いのか、僕に対して部下に接するように対応してくる。
『さて、このオッサンにどこから教えればいいかな……』
僕の配属は、基本三階。認知症の入所者のフロアーだ。
主任に武田さんを紹介されてから、三階に上がる。
「熊谷さん。おはようございます!」
まずは詰め所に入り挨拶する。この人は、熊谷 保子さん。三階のフロアーリーダーだ。
「おはよう。ん? 花嶋君、今日は先生?」
武田さんを見付けた熊谷さんが、聞いてくる。僕は思わず武田さんを見たが、武田さんは挨拶する素振りも無く、じっとしている。
「武田さん! まずは挨拶してください!」
武田さんを睨みつけ、挨拶を促す。
「けど、この人俺よりも年下でしょ! どうして年上の俺から挨拶しないといけないんですか?」
『ダメだわ……この人』
そう思って、熊谷さんに向かって軽くお辞儀をすると、詰め所を出た。
『まずは……っと、トイレ誘導かな?』
と、武田さんを連れて、一人の入所者のところに行く。
「荒笠さん。おはようございます」
この方は、荒笠 保さん。七十二歳のおじいちゃんで、アルツハイマー型認知症を患い、今では自分や家族の名前どころか、言葉すらも忘れてしまっている。身体的障がいは殆ど無く、自力歩行可能だが、当人に行動の意欲がなく、放っておくと朝から晩まで座り続けている。そのため、定時毎のトイレ誘導では、必ず声を掛けトイレまで案内するのだ。
僕は武田さんに、荒笠さんの誘導をお願いした。武田さんは、椅子に腰掛けたままの荒笠さんに近付くと、目の前から立ったまま、手を差し出した。
「はい! 立ってよ! トイレ!」
その言動に僕はカチンときた。
「ちょっと、武田さん! あなた、一体何処で何を習ってきたんですか!? 年寄りと話す時は、目線を合わせるか、それよりも下から話すのが基本です! それに、介護はしてやってるのではない! させていただいてるの精神が重要なんです!」
「荒笠さん。おトイレ行きましょうか? じゃあ立ちますよ。せーの!」
僕は、荒笠さんの前に屈み込むと、荒笠さんに優しく声を掛け、手を軽く引いて立ち上がった。
「おいおい、花嶋君よ。それなら、初めからそう言ってくれないと」
「あなたに【君】で呼ばれる筋合いはありません。しかも、上から目線で話される筋合いもありません。今回はスルーさせていただきますが、態度を改めなければ、あなたの実習を強制終了しますよ。よく考えて話してくださいね」
荒笠さんをトイレに案内しながら、武田さんに注意、いや警告を行った。
『これで変われば、いいんだけど……』
昼食介助時になって、僕はエプロンを着用すると武田さんにエプロンを着けて食堂へ来るように指示した。
しかし、食堂に現れた武田さんは、エプロンを着けていなかった。
「武田さん。僕の言った事、聞いてました?」
「ああ。聞いてたよ。エプロンなんて前掛けは、キッチンに立つ女がする物だ。だから、俺が着ける必要はない!」
悪びれる訳でもなく、真顔で答える武田さんに怒りを通り越し、呆れてしまった。
「あの……ですね、武田さん。エプロンは最低限の衛生管理を目的として必要な物です。本来ならば、手袋とマスクの着用も必要なのですが、それらをする事により、入所者の皆様に不快な思いをさせないように省略しています。実習にあたって必要な物の中に、エプロン書いてありましたよね。今すぐ取って来てもらえますか!?」
なるべく優しく説明して、僕は先に食堂に入った。
暫く待つと、武田さんがエプロンを着けて戻ってきた。その光景を見て、笑ってはいけないのだけど、笑いを堪える事が出来なかった。武田さんが着けて来たエプロン。それは子供向けのキャラクターが一面に無数プリントされた、それはそれは可愛いらしいエプロンだった。
「仕方ないだろ。娘のを借りてきたんだ」
恥ずかしそうに話す武田さんに、少し親近感すら覚えたのだった。
食事介助は、実習生には行わせない。基本、見学実習だけだ。何故かと言うと、嚥下確認をしっかり行わないと、誤嚥による誤嚥性肺炎や、窒息死を引き起こしたりするからだ。
「じゃあ、武田さん。僕はこの方の食事介助を行いますので、武田さんは、自力で食べられる方・介助にて食べている方を見学してください」
そう言って食事介助を始めた。
暫くして、武田さんの姿が見えない事に気が付いた。
『まさか勝手に介助してるんじゃないだろうな!』
嫌な思いが脳内を駆け巡り、食堂内を見渡してみたがやはりいない。
『何処に行ったんだ!? あの人は!』
溜め息をつきながら窓の方を見た。その瞬間! 僕は目を疑った。食堂の外のベランダに出て、優雅に紫煙をあげている武田さんを発見したからだった。
『クソッ! あのオッサン!』
食事介助中のため、離れられないのをいい事に、武田のオッサンは、こちらに気付かれているのを知らないかのように、二本目のタバコに火をつけた。
「花嶋君。行っていいよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします!」
状況をいち早く把握して、僕に声を掛けてくれた熊谷さんに、お礼を言うと、僕はベランダへと早足で歩いて行った。
「ちょっと! 武田さん!」
外へ出て大声を出すと、武田さんは右手を軽く挙げただけだった。ますます腹が立ち、自分でも分かるくらいドスドスと歩く音を出していた。
「あなた何してるんですか!?」
「ちょっと一服してただけだよ。そんなに目くじらたてなくてもいいじゃない」
「あなた、自分の立場分かってます!?」
「分かってるよ。俺が実習生で、花嶋君が俺の先生だよな」
真顔で答える武田のオッサンに、我慢の限界を超えた僕は、「ちょっと来てもらえますか!?」と武田のオッサンを引っ張って行った。
「栗山主任! すいません! この方、強制終了してください!」
僕は事務所に入ると、中にいた中年のオヤジ。栗山 正隆さんに声を掛けた。栗山さんは、主任相談員で、実習生の統括を行っている。
「どうしたんだい?」
少しおっとりした口調の栗山主任だったが、僕の表情を見ると「ちょっと来て」と別室に武田さんと共に案内した。
「で……、その武田さんのどこがいけなかったのかな?」
栗山主任が真剣な眼差しで聞いてくる。
「実習生としての態度です!」
「ふむ。態度ってどんな?」
「まず、挨拶が出来ない。年寄りに対して上から目線で、命令的。業務指示に従わず反抗的。勝手な判断での、休憩実施。もう、目に余る事ばかりです。こんな事を本人の前で言うのは何ですが、過去のしがらみを一旦、整理してから再実習した方が良いと思います!」
落ち着いた表情で、僕の話を聞いていた栗山主任は、話を聞き終えると、武田さんの方を向き「で、如何ですか?」と質問した。
「俺は悪い事してないよ。年長者へは、年下から挨拶するのが通りだし、エプロンの必要性も今日初めて知った。タバコを吸いたい時に吸って何か悪いかい?」
その言葉を聞いた栗山主任は、僕に退室するようにすすめた。
その後、栗山主任と米原主任・武田さんの三人で話をし、態度を改める様子のない武田さんは、ヘルパー養成講座の責任施設へ連絡され、業務途中にて強制終了となった。
彼の悪かった点は、ただ一つ。過去の地位を捨てきれず、ズルズルと引きずった揚げ句、実習生と実習を受ける施設スタッフとの上下関係を把握出来なかった事だ。新人や実習生は、年功序列ではない。少し考えれば分かる通り、実習生や新人は、いつでも最下層のポジションに位置するのだ。
「とんでもない人に当たったね」
熊谷さんにそう言われたが、僕は黙って頷くしかなかった。
後日、武田さんの通うヘルパー養成講座の施設より連絡があり、武田さんの再実習を行う事になった。
担当は、勿論……僕。
武田さんは、初め、恨めしそうに僕を見ていたが、一つ武田さんに教えてあげると納得したようだった。
教えた内容とは……、何故【実習の強制終了が存在するのか】という事だ。基本、施設は実習生より実習代金を受け取り実習期間の教育を行うのだが、これにより、実習強制終了をしない施設も確かに存在する。しかし、この施設のように強制終了を実施している施設も多数存在する。それは何故か? それは、実習生が実習を受けた施設は、その実習生にとっては実務訓練所のような物で、資格取得後の就職先で「何処の施設に実習行ったの?」と聞かれると、その実習生の善し悪しに関わらず、施設の名前が出てしまうからだ。まあ、言ってしまえば、施設間での世間体といったところだ。だから、態度の悪い・物分かりの悪い実習生等に関しては、【強制終了】【再実習】等の処置がとられる。
この話をして、「もし武田さんが以前勤めていた会社に来た研修生が、態度が悪く、物覚えが悪かったらどうしますか? たいして何も分かっていないのに、分かったような顔をして、別の会社に就職され、あなたのいた会社で学んだと言われたら、どうしますか?」と質問すると、「それは出来ん! そんな奴を野放しにする事など、言語道断だ!」と言葉が返ってきた。
そこで初めて、気が付いたのか「先日はすみませんでした」と、頭を下げていた。
それから二日間、武田さんにとってはどうか分からないが、施設にとっては有意義な実習を行った。直接介護に関しては、基本見学実習を行い。間接介護には、率先して取り組んでもらった。業務の合間・休憩時間・業務終了後を利用し、武田さんからの質問にも答え、細かい説明も行った。
ある意味、今回の武田さんの実習は、再実習になって良かったと僕は思う。あの時、あのまま、横暴な武田さんが実習を終えていれば、武田さんのためにもならなかったであろうから。
武田さんも似たような事を思ったのか、最終日、特養実習ではなくデイサービス実習だったにもかかわらず、栗山主任・米原主任・熊谷さん、それと僕を探して、一人一人に「お世話になりました。ありがとうございました」と深々と頭を下げて行った。
『おいおい。シャバに出所する犯罪者じゃないんだから……』
と、ふと思ったが、気持ちが通じたようで良かったと胸を撫で下ろした。
武田さんが、実習を終了してから米原主任に聞いて知った事なのだが、武田さんの再実習の担当を僕にしたのは、他でもない、武田さん本人たっての希望だったそうだ。
『ふぅ! 可愛い女の子に好かれるなら良いけど、オッサンに好かれてもねぇ……』
と、思ったのは、胸にしまっておこう。




