3.嘘の返却
真琴の絶叫に、男に向かっていた『五』が空中で止まった。ふわりと浮いた《五》が、空中でぷらぷらと揺れる。動き始めた、と思えば、今度は真琴に向かって一直線、突っ込んできた。
何でだ。
物理を無視した動きに真琴の頭はパニックになった。避けなければ。分かっているのに足が動かなかった。
ニュートンの巻き毛とずっと昔に見たアインシュタインの舌を出している写真が頭に浮かんだ。
もうだめだ。そう思った時だった。
「カバ!」
「俺じゃない!」
ヤナセ譲を怒鳴りつければ、譲は食い気味に怒鳴り返した。
ヤナセは立ち尽くしたまま空中を見たまま固まっている少女を確認すると、舌打ちし、商店街にある招き猫のオブジェを、躊躇もなく足蹴にして空中へと放り出した。招き猫は真琴の目の前にいた《五》をはじきとばし、地面に落ちた。
ヤナセは宙に浮いたまま行く先を失い、ぷらぷらとさまよう《五》に向かって、棕櫚帚を振りかぶる。
「あんたたちの主はあっでしょう? さあ、オカエリ、ナサイ!」
棕櫚帚を振り下ろし、《五》を男に向かって叩きつける。
「やめろ! とまれ!」
男が叫んだ。再び、男一直線だった《五》が上下に微妙に揺れた。電線でバウンドして道路に落ちた。男頭を覆ってうずくまっていた男は、落ちている《五》を確認しほっとした顔をし、ヤナセを見てにやりと笑った。
真琴が図書館登録できない人間だと知って、馬鹿にし、蔑んだ人間と同じ顔だった。
真琴が今日の絶望を思い出していると、着地したヤナセが勢いよく真琴を振り返った。
「あんた、見えるの?」
殺されそうな強い目だった。
「なんのこ……ええええ!」
とでしょうか、とぼけようとした真琴だったが、できなかった。
道路の真ん中に落ちた『五』をクルマが通り抜けたのだ。
さっき招き猫のオブジェとはぶつかったじゃないかとか、物体とか質量とか衝撃とか、常識とか。
いろんなものを無視した目の前の現実に、真琴の頭から男の哂い顔で感じた嫌な気持ちが吹っ飛んだ。習ったばかりの物理の公式が反乱を起こした。
「そいつ捕まえてろ。嘘が見えている」
ヤナセは真琴に視線をやり譲に告げると、颯爽と道路を渡った。途中、道路の真ん中で『五』を穂先でひと撫でし、穂先に引っかけ宙に浮かせる。
「はいはい」
譲は「現実、ってなんだっけ。常識ってどこだっけ」と呟き、空から落ちてくる文字に目が釘付けになっている真琴の肩に手を乗せたが、真琴は気づかない。
空から落ちる可能性のあるものを思いつく限り呟いていた。空からはほかの文字が落ちてきていた。
『月』『円』『千』『万』
まだ遠くにあるが、落ちてくる。真琴の頭はパンク寸前だった。
ヤナセは穂先に『五』を引っかけたまま、頭上で棕櫚箒を回した。質量と重量を無視している、と突っ込む人間はいない。
『月』『円』『千』『万』は重力にしたがうように速度を増した。ヤナセは空を睨んだまま、棕櫚帚を回し続け、その時を待った。穂先が『五』に触れるかどうかの刹那、ヤナセは空をかき回すように、これまでで一番大きく棕櫚帚を旋回させた。
落ちてくる文字たちが棕櫚帚の先に引っかかった『五』の周囲に集まる。文字たちは『五』を中心に、空中を上下左右、洗濯機の中の洗濯物のように揺れながら、ヤナセの頭上を回っていく。
『月五千万円』
文字が確かな言葉に変わる。ヤナセは男のにやりと笑った顔よりも凶悪な笑みを浮かべると、棕櫚帚を振り下ろした。
文字たちは一斉に猛スピードで男へと降り注いだ。
「とまれ!」男が叫んだが、文字たちは止まらない。勢いを増して男に向かった。
男は顔を恐怖にゆがませたが、逃げられないと悟ると
「とまれ!」
さっきよりも大きな声で叫んだ。
『五』が減速し男の足元に落ちたが、角々しい出で立ちで地面を這うように動くと、男の脛に体当たりした。『五』の上にこけた男の上に『月』が真上から突っ込み、はらいとはねの部分が男の動きを封じ込めた。男の上に次から次へと文字が降り注ぐ。
あっという間に、男の姿は文字に埋もれて見えなくなった。
真琴は呆然と文字の山と、泰然と立つヤナセを見つめた。
「なんだ、これ」
「嘘だよ」
呟きにいちいち答える声は聞こえていたけれど、頭の中には入っていなかった。疑問だけが自動的に口から出た。
「変な人じゃないのか」
「まあ、変な人っていえば、究極に変だがなあ」
譲は『嘘』が見えたらしい少女を見た。
「あれ、なんですか」
真琴の視線の先では、全長三十センチくらいの《ま》と《も》と《る》が薬屋の角からひょこひょこと出てきて、ヤナセの足元に集まっていた。
「嘘だよ」
譲は肩をすくめ、『嘘』が見えてしまったらしい不運な少女に、困ったように笑う。
「さて、どうだった?」
「四千ギラです」
足の短い小型犬みたいな《ま》が、短い足なりに精一杯胸を張ってヤナセの足元まで優雅に歩き、計測機械のような物を差し出す。
小さな文字が、自分で動きしゃべっている。男を埋めた大きな文字も、真琴の目の前で人間のように動きしゃべっている小さな文字も《嘘》だという。
理解を超えた現実に、真琴は思考を放棄し、愛嬌たっぷりに動き回る《ま》と《も》と《る》を見つめた。




