4.黒い蔦の正体
《も》はその体型を生かし回転してヤナセの足元にたどり着くと、長靴を登ろうとしたが、その体型のせいで長靴から滑り落ちた。何度か登ろうとして諦め、どこから取り出したのか小さなハンカチをヤナセに差し出す。ヤナセが受け取ると、嬉しそうに飛び跳ねた。
《る》はといえば、移動することも億劫だといったふうに、薬屋の入口、ちょうど日陰になった場所に腰かけ、《ま》と《も》を眺めるように横になった。
ヤナセが飛び跳ねる《も》を手のひらに乗せると、《も》はかいがいしくヤナセの頬を伝う汗を拭いた。
獰猛な獣のような男に襲い掛かり男の上にある文字と、人間っぽく小型犬のようなかわいらしささえ感じさせる文字たち。文字が目に見えるのが初めてなら、喋る文字も初めてだった。シュールな光景に、真琴は頭がくらくらした。
「四千か案外少なかったわね。まったく割に合わないし」
ヤナセは《ま》が差し出した計測機を一瞥した。
「仕方ありません。他人のための嘘など所詮、その程度です」
《ま》がツンと胸を張った。中央の縦線が気持ち、伸びた。声は上品な男性のものだ。
「ヤナセ。いいのかあ。そいつまだ生きてるぜえ」
間延びした少年の声は薬屋の段差に腰かけた《る》だ。くるっとした最後の丸の部分で、男が埋まった文字の山を指す。
『月五千万円』が男のうめき声に呼応し、どんどん黒に染まりはじめていた。
「往生際が悪いわね」
ヤナセはこめかみを押さえ、つまらなそうに呟いた。
その通りだとでもいうようにヤナセの肩で跳ねた《も》が、着地に失敗しヤナセの肩から滑り落ちた。道路を転がり、側溝の金網に詰まった。
「打ち上げられたエビみたいね」と《も》を摘まみ上げ地面に下ろしたヤナセは、急に動きを止めた。
「ヤナセ!早く!」
何かに気づいた《ま》が焦ったように叫んだ。超短足を必死に動かし嘘に埋もれた男とヤナセの間を往復する。
《も》もヤナセの周りを回った。
ヤナセは左腕をきつく掴み、文字の山を見据えた。
「そう、いうこと」
作務衣からのぞく左手首が黒く染まり始めていた。
真琴はあらたに始まった非現実的なできごとを呆然とみた。
左手首の黒はうねりだし、皮膚の表面を肩へと広がっていた。腕を侵食するように暴れまわっていたかと思うと、空中へと飛び出し、おどろおどろしくも美しい黒い蔦になった。蔦は空中で荒ぶるように一回転すると、ふたたびヤナセの腕に巻きついた。ヤナセの手首が黒くなってから蔦がまきつくまで、五秒とかからなかった。ヤナセの肩までを覆った黒い蔦は、仕上げとばかりに、しなやかに葉をゆらす。ゆっくりとヤナセの指先が漆黒にそまった。
黒い蔦は脈打った。
「早く、早く嘘を返してください。廃人になりたいのですか!」
《ま》がまくしたてた。《も》もヤナセの周りをさらに回転数を増して回った。真琴は焦る彼らの気持ちが分かる気がした。真琴の胸にも響いた蔦の脈動は、禍々しいと形容するのがぴったりだった。
(さっきまで飄々としていたあの男の人も焦った顔をしている。それでもこの人は……)
異様な自分の左腕を無感動に見下ろすヤナセは、慣れているのでも、驚いているのでも、諦めているのでもない不思議な顔だった。
ヤナセは腕に茂った蔦に指をのせ、何かを探るように蔦をなでた。そして、無造作にその中の一本をひきちぎった。瞬間、文字の山の下で「うっ」と男のうめき声がした。
同時に、黒い蔦から赤い液体が流れだす。血よりは薄く粘性のない赤い液体は黒い蔦の断面から流れ、アスファルトの上に赤い水たまりになった。ヤナセは深く息を吸うと、切り取った蔦を、赤い水たまりに浸した。
(文字だ)
赤い液体を吸い膨張した黒い蔦は、《月五千万円》が念珠のように連なった文字の塊だった。
(黒い蔦が小さな文字?)
真琴は慄然と立ち尽くす。
その間も切り取られた黒い蔦からは赤い液体がしたたり落ち、《月五千万円》が赤い液体をすい、大きくなっていく。空から降ってきた文字のようだった。
ヤナセの腕から流れていないのに、ヤナセの顔からはどんどん血の気がひいていく。男の上に積み重なった文字の山が音を立てて動きだす。どういう仕組みかわからないが、ヤナセの顔色が悪くなればなるほど、明らかに男が元気になっている。
「ヤナセ!何をしている、さっさと嘘を返却しろ」
「どいつもこいつも勝手なことを」
譲の声にヤナセは舌打ちし、無造作に自分の周りを回り続ける《も》をひっ掴むと、赤い液体が流れだしている場所に、《も》の「はらい」を突っ込んだ。
勢いは弱まるも止まる気配はない。ぽたりぽたり、赤いしずくが流れ続ける。
目の前にたつ、間抜けそうな少女を見た。
「ちょうどいい、あんた手伝いなさい」
「へ?」
真正面からの強い光に真琴の口から間抜けな声がでた。
何がちょうどいいのか、何をどう手伝えなのか、質問する暇など与えられなかった。
「いいから、ここ持っていなさい。できるでしょ。私が死んでもいいの」
気づけば真琴はヤナセに腕を捕まれ、問答無用でヤナセの腕に巻きつく黒い蔦を握らされていた。
「これは!」
「分かるみたいね。あの文字の山はあの男の嘘よ。いい? そのまま止血の要領で強く掴んでいなさいよ。離したら死ぬから」
「え、それはどっちが」
あまりに不穏すぎる響きに、真琴がぎょっとしてヤナセを見れば、
「一蓮托生、いい言葉ね」
ヤナセはにたりと笑った。




