37.罠
帝都の中心部を覆う重苦しい喧騒から逃れるように、トーマス・ホフナーは城門の石段へと力なく腰を下ろした。
そのすぐ隣には、長槍を手に微動だにせず立つ門兵――かつて彼が心から憧れ、背中を追いかけた元騎士団長、ベン・ファルコーネの姿があった。
「団長……。いよいよ、かなりマズイ事態になっておりますよ」
頭を抱え、トーマスは吐き出すように呟いた。
「ああ。ここを通る者たちから、嫌でも噂は流れてくるよ」
「なんとか……なんとかなりませんのかねぇ。このままじゃ、帝都の治安どころか国が真っ二つに割れかねませんよ」
「そう言われてもね。見ての通り、いまの私はただのしがない門番だ。こうして愚直に立ち続けることしかできんよ」
ベンの静かな返答に、トーマスは今日何度目になるかも分からない深いため息を吐いた。
「とにかく……あのマグナス新団長が、盛大にやってくれましたよ。まさか何の証拠調べもなしに冒険者を即時捕縛し、そのまま明日朝の即刻処刑の手続きまで強行するとは……」
「最悪、の一手だな。あの男は冒険者という存在の力を甘く見すぎている。彼らは国家や法に無条件で従う都合のいい市民ではない、どこまでも自由な無頼だ。もし彼らが総出でこの帝国を見限ったらどうなるか……」
「市場から肉も薬草も魔獣素材も、丸ごと消えてなくなるでしょうね」
「それだけならまだいい。この愚行が隣の王国側に漏れるのが最もマズイ。ただの『外聞が悪い』で済むレベルではないぞ。あちらの貴族どもは『人権と正義』という格好の盾を構え、意気揚々とこちらに刃を向けてくるだろう」
「……もしそれで再び王国との全面開戦にでもなれば、今の帝国に勝ち目はありませんね」
ズシリと両肩に重圧がのしかかり、トーマスは胃が痛むのを覚えた。
「団長から……憲兵総監に直接連絡を繋いでもらうことはできませんかね?」
「何度も言わせるな。私はもう団長ではない。権力闘争に敗れ、トカゲの尻尾のように切り捨てられた身だ」
政治の上層部でどのような醜い陰謀が動いたのかは知る由もないが、ベン・ファルコーネという男もまた、上層部の誰かの罪を肩代わりさせられて失脚した犠牲者に過ぎないのだ。
その時、トーマスの視線がふと門の外、十メートルほど離れた草むらの広場に注がれた。青々とした芝の上に、ポツンと置かれた不格好な木製の仕掛け。
「……ところで。ベンさん、アレは何なんです?」
トーマスが指をさすと、ベンは自慢げに髭を撫でた。
「ああ、アレか。あれは罠だよ」
「……は? 罠?」
「ここを通る子供たちが狩りに使っている仕掛けなのだがね。面白そうだったから、私も一つ融通してもらったのだよ」
「……アレで何を捕まえるおつもりで?」
「野ウサギや鴨だな」
「まさかとは思いますが、勤務中に今晩の晩酌のツマミを調達しようとしてたんですか……」
トーマスがあきれ果てた視線を向けた、その時だった。
深い草むらがサワサワと揺れ、一羽のふくよかな茶色い野ウサギがピョンと姿を現した。
「……動くなよトーマス。あの台座には、ウサギの好む煮豆が仕込んである。その匂いを嗅ぎつけたんだ」
「へえ……ホントに寄ってくるもんですね……」
トーマスも思わず息を殺し、なるべく小さな声で感心してみせた。
次の瞬間――ビシッ!!
軽快な音とともに木製の台座が跳ね上がり、仕込まれたワイヤーがウサギの足首を完璧に捉えた。仕掛けに宙吊りにされたウサギが、ジタバタと脚をバタつかせる。
固唾をのんで見守っていたベンは、「ふぅ」と満足げに息を吐き出すと、長槍を壁に立てかけた。
「やれやれ……これだから門番はやめられんのだよ」
「……確かに、平和そうで何よりですよ。俺も門兵への転属希望でも出しましょうかね」
吐き捨てるようなトーマスの皮肉にも、元団長はどこ吹く風だ。捕らえたウサギの耳をひょいと掴み上げ、ドヤ顔で掲げてみせる。
「ハハハ、我が門兵隊の入団試験は厳しくてね! 君のようなモヤシには到底無理というものだ。大人しく捜査局で泥水をすすりながら駆けずり回っていたまえ!」
その微笑ましいやり取りが交わされていた、まさにその時だった。
街道の向こうから、重々しい蹄の音を響かせて一輌の馬車が近づいてきた。
見るからに貴族や大商人が使うような精巧で豪華な意匠。そしてその御者台には、冷徹な面持ちで手綱を握る、一人の黒髪のメイドが座っていた。
通常であれば、帝国へ入る馬車には厳重な検問が必要だ。
しかし――ベンはウサギを片手に持ったまま、すーっと自然な動作で街道の端へと身を引いた。
制止する素振りすら見せない。
馬車は二人を意に介することもなく、滑らかな速度のまま門をくぐり、帝都の街中へ侵入していった。
トーマスは不審そうに首を傾げた。
「……ちょっとベンさん。止めて検分しなくてよかったんですか?」
問われたベンは、手に持ったウサギを見つめたまま、気まずそうにスーッと視線を明後日の方向へと外した。
「……ああ。あの馬車は、いいのだ……」
そのどこか諦めを含んだ声に、トーマスは帝都を包む影がより一層濃くなったことを悟った。




