33.不穏と静溢
冒険者パーティー『フィオナと愉快な仲間たち』が身を寄せ合っていたのは、帝都の路地裏にひっそりと佇む、薄暗くカビ臭いボロ宿屋の一室だった。
三人で一間という狭苦しい部屋。
湿気た布団と傾いたテーブルしか存在せず、プライバシーなど端から望むべくもないこの環境に嫌気が差すのは、まさに時間の問題であった。
「はっ? 俺たちもここを引き払って、あの湖畔の野営地に移り住むってのか?」
床に直接胡座をかいていた大剣使いのフォーリーが、フィオナの突拍子もない提案に目を丸くした。
「そ! 天幕の予備も十分にあるみたいだし、ルイスさんに相談したら『全然いいですよ~、みんなで賑やかに暮らし出しましょう!』って即答してくれたわよ」
「確かに……あっちの方が野営とは名ばかりで、むしろここより遥かに快適そうなんだよなぁ」
そう呟いたのは、ガタつく机に向かって羊皮紙と木片を弄っていた補助職のハーランドだ。
あの孤児たちが身を寄せる湖畔では、頑丈な天幕がいくつも並び、狂気の建築家ことスレンダー・エッヂの手によって三つ目の木造小屋が建造されている最中である。
さらには、大鍋で沸かしたお湯と湖の水を混ぜ合わせた『ぬるいバスタブ』まで完備されているのだ。このカビ臭いボロ宿屋に比べれば、遥かに文化的で人間らしい暮らしと言えた。
「なら決まりね! 宿のオヤジさんには申し訳ないけれど、さっさと荷物をまとめて引き払っちゃいましょう!」
ベッドに腰掛けたフィオナが、パチンと威勢よく指を打ち鳴らす。
「引っ越すなら、冒険者ギルドに登録居住地の変更届を出しておかないとな」
ハーランドが振り返って確認すると、フィオナも「あー、そういえばそうね」と納得したように頷いた。
ふと、フォーリーの視線がハーランドの手元で弄られている奇妙な木製パーツへと向けられた。
「おい……ハーランド、お前が作ってるそれって、まさか……?」
「ああ。ルイスさんが使っていたあの『クロスボウ』さ。構造を観察させてもらったから、自分たちの手で再現できないかなと思ってね」
「おいおいおい! そりゃ帝国の法律じゃガチガチのご法度だろ!? 流石にヤバいんじゃないのか?」
焦るフォーリーに対し、ハーランドは作業の手を止めずにケラケラと笑う。
「なぁに、憲兵騎士様に見つからなきゃどうということはないさ! 狩りや討伐の時だけ使えばいいんだからね」
「確かに! 毎回ルイスさんから借りるのも申し訳ないし、自分たち専用のが持てるなら最高じゃない!」
フィオナもその凶悪なまでの有用性を身を以て理解しているだけに、ノリノリで賛同した。
「まあ……お前らがそう言うならいいか。よし、それじゃあ今日はさっそく引っ越しの準備といくか!」
「そうね! 私、あのハンモックっていうのを作ってみたいから、市場で丈夫なロープと布を買い出してくるわ!」
「それじゃ、僕はギルドへ行って変更手続きを済ませてくるよ」
ハーランドが立ち上がり、三人揃って和気あいあいと狭い部屋を後にした。
――三人の足音が階段を下り、遠ざかっていった後、しばらくして。
誰もいなくなったはずの部屋の木扉が、カチャリと静かな音を立てて開かれた。
そこからヌッと部屋の中へ醜い顔を覗かせたのは――このボロ宿屋の主人であった。
「ケッ……あんだけ世話してやったってのに、あっさり出て行きやがるか、あの田舎者どもめ……」
前歯が何本も欠落した口元を歪め、老人は忌々しそうに吐き捨てる。
「さてさて……あんな貧乏くさい新米冒険者どもじゃ期待はできねぇが、何か金目の物でも残していねぇか……」
そう。この主、あろうことか客の留守を見計らっては私物を物色し、小銭や貴重品をかすめ取るという最悪な手癖の持ち主であった。
しかし、狭い室内に手荷物らしきものはひとつも見当たらない。田舎育ちの彼らとて、帝都の治安などを端から信用しておらず、貴重品はすべて身につけて出かけたらしい。
「チッ、警戒心の強いガキどもだ……」
諦めて退散しようと背を向けかけた男だったが、ふと机の上に放置されていたある物体に目が留まった。
「……ん? おいおい、これって確か……」
男の脳裏に蘇ったのは、昨日、高圧的な第一騎士団の連中が帝都中の宿屋へ配り歩いていた、あの信じがたい額の懸賞金が踊る手配書であった。
――同じ頃。
陽光がキラキラと眩しく反射する湖畔では、ルイスと大物武器商人ユーリー・バウトが並んで丸太に腰掛け、のんびりと湖面へ釣り糸を垂らしていた。
「ユーリーさん……これ、やっぱりいつものクロスボウで射ち捕る方が手っ取り早いんじゃないですかね……?」
浮きが微動だにしない湖面を見つめながら、ルイスが控えめに尋ねる。
「フッフッフ、ルイス君。こういう穏やかで静溢なひと時を心ゆくまで味わうのも、また人生の一興というものだよ……」
そう言って目元に渋いシワを寄せ、目を細めるユーリー。
どうやらこの老紳士、魚を獲ることそのものよりも、こうして雑騒を離れて流れるのどかな時間を楽しんでいるらしい。生まれながらの狩人であり、効率重視のルイスには、少々理解しがたい贅沢な営みと言えた。
「……おっ! きたきたきたっ!」
ルイスの手元で竿がしなり、彼は素早い手つきで糸を引き上げた。水面から飛び出し、針に掛かっていたのは――ルイスの手のひらほどの大きさの、カニであった。
「…………」
無言で見つめ合うルイスとカニ。
まあ、茹でれば食えないこともないだろう……。
ふと、ユーリーは横目に、少し離れた野外竈門の周辺に集まっている孤児たちの姿を眺めた。
「ふむ……本当に実にたくましく、力強い子たちだな」
「本当にそう思いますよ。彼らにとっては、働くことも、料理をすることも、すべてごっこ遊びの延長なんです……あだだだだだだっ!?」
神妙な面持ちで語っていた直後、ルイスはカニの力強いハサミで指を思い切り挟まれ、情けない悲鳴を上げた。
ユーリーが苦笑しながらカニを外してやると、ふと疑問を口にした。
「して……あの子たちは、一体何をしているのだね?」
竈門のすぐ脇、数人の孤児たちが集まり、焦げた台座の上に鎮座する「黒い球体」に小さな野の花をお供えし、静かに祈りを捧げているように見えた。
「あー……あれ、見に行ってみます?」
二人は竿を置くと、ココたちが集まる場所へと足を運んだ。
「これは……人の首、なのか……?」
ユーリーが覗き込み、眉をひそめる。
「まあ、はい……。実はそれ、エルヴィン・プエルトなんです……」
「な……何だとっ??!」
ユーリーの細められていた目が、限界まで大きく見開かれた。
「その額の中央に残された傷から見て、間違いなく彼かと……」
ルイスが説明を終えた、その時であった。
「んふ……んっふっふっふっふ! コヤツ……ずいぶんと苦悶に顔を歪ませ、絶望しながら死んでいったと見えるなぁ……! 痛快だ、実に痛快だよ、ルイス君っ……!」
いつも温厚で紳士的な老人が、顔半分を影で覆い、地獄の底から響くような凄絶で凶悪な笑みを浮かべたのだ。
「……」
ルイスはかける言葉が見つからず、ただ沈黙するしかなかった。このエルヴィン・プエルトという男は、かつてユーリーの愛する姪を無残に死へと追いやった、正真正銘の宿敵なのだから。
仇の惨めな末路を凝視していたユーリーは、不意に驚くべき提案を口にした。
「ルイス君……この首を私に譲ってはくれないかね? 金ならいくらでも支払おう」
「いやー……その、そう言われましても、ココちゃんたちが供養してくれているものですから……」
ルイスが困惑していると、ユーリーの足元で、小さな可憐な影が動いた。
ココである。彼女は無垢で漆黒の瞳をパチパチと瞬かせ、不思議そうに二人を見上げていた。
「ほう……君が、この怨嗟に満ちた御霊を弔ってくれていたのかい?」
ユーリーは目線をココの高さまで下げるため、膝を折って優しく語りかけた。
すると、ココは無表情のまま、ビシッと小さな可愛らしい指を三本立ててみせた。
そして――。
「金貨三枚なら、譲るのを考えてあげないこともない……」
可愛らしい口から、あまりにも生々しい大人びた言葉が飛び出した。
「ハッハッハッハッハッ!! 素晴らしい! なんと凄い逸材がいたものだなっ! この私相手に、一切の気負いもなく直接商談を持ちかけてくるとはっ! これは驚いた、君は将来、とんでもない大物商人になるぞ!!」
闇の武器商人たる老紳士は、腹を抱えて本日一番の大爆笑を響かせるのだった。




