25.潜伏にうってつけの場所
夕刻の暗殺者ギルド。
薄暗い店内に満ちているのは、酒の匂いではなく、皮膚をチリチリと刺すような濃密で不穏な殺気であった。
「ギルドマスター。今回の件、一体どういうことなのかね? 私に納得のいく説明をしてもらおうか」
刺繍が眩しい豪奢な軍服を纏った第一騎士団長マグナス・クレイマンは、従えた十数名の直属騎士たちを背後に従え、バーカウンター越しに静かな、しかし強烈な威圧感を放ちながらヴィクター・アダムスへ詰め寄っていた。
「どうもこうもない。提示された対象者の素性に明らかな偽りがあった。これは当ギルドの規約において、重大な契約違反に該当する……」
口に咥えたパイプから紫煙を細く吐き出し、ヴィクターは有無を言わせぬ冷淡な声で反論した。磨かれていたグラスの底が、カウンターの木目を静かに叩く。
「ふんっ! 人殺ししか能のないドブネズミどもが……どの口で規約などを抜かす? 貴様らは私の依頼どおり、黙ってあの男を殺せばよかったのだ! この不始末、どのように落とし前をつけてくれるのだね……!」
マグナスの端正な顔立ちが醜く歪み、憤怒を孕んだ瞳がつり上がっていく。
だが、ヴィクターは揺らぎひとつ見せず、グラスを布で拭いながら冷徹な言葉を投げ返した。
「不始末も何も、最初から我々を罠に嵌めようと欺いたのはそちらだろう。……あえて言わせてもらうがね、クレイマン卿。お前は、我々のクライアントとして相応しくない。……二度とこの店へ足を踏み入れるな」
「……私をお前と呼ぶなッ! この私に命令するんじゃない!!」
ついにプライドを打ち砕かれたマグナスが激昂し、ドガシャアンっ! と重厚なオーク材のカウンターを革手袋の拳で苛烈に打ち付けた。木片が爆ぜ、乾いた音が静寂を切り裂く。
「……命令ではない。決定事項をお前に通知しただけだ。これ以上の不毛な問答は無駄だというのだよ。……ただちに立ち去りたまえ」
ヴィクターの瞳から完全に感情が消え失せた。興味を失ったかのように視線を落とし、手元のカットグラスを再び磨こうとした――まさにその時。
「全員、抜剣! この場にいる不穏分子をことごとく拘束せよ!」
マグナスが踵を返し、背後の騎士たちへヒステリックに命じた。
シャラリ……!
鋭い金属擦過音が重なり合い、十数名の精鋭騎士たちが一斉に抜剣した。
白銀の刃が薄暗い店内の光を反射する。
同時に、テーブル席のあちこちに散在していたギルドの暗殺者たちの全身から、目に見えるほどの凄絶な殺気が立ち上り、一触即発の緊張が空間を支配した。
直後――パリンっ!! と甲高い破壊音が響いた。
ヴィクターが右手に握り締めていた厚手のカットグラスが、握力だけで粉々に砕け散ったのだ。
破片が飛び、彼の指先から赤黒い血がポタポタと滴り落ち、カウンターに小さな血溜まりを作っていく。
「そのような真似をしてみろッ!! 貴様自身、この帝国の貴族社会で二度とまともに生きていけなくなるぞッ!!」
いつもポーカーフェイスを崩さないヴィクターが、珍しく冷静さをかなぐり捨てて言い放った激怒の一声。
しかし、マグナスはその血を見てさらに狂気的な笑みを深めた。
「なにが貴族社会だ……。私が、この私がだ! 騎士を頂点とした完璧な新たな秩序を、この腐敗した帝都に打ち打ち立てるのだ! ……私が創造する至高の新世界には、ゴミのような暗殺者も、クソみたいな武器商人も必要ないのだよっ!」
肩をワナワナと小刻みに震わせ、自らの万能感に酔いしれるように高らかに宣うマグナス。
だが、ヴィクターは怒りを通り越し、心底呆れ果てたように深く肩を落とした。
「なるほど……それがお前の矮小な野望というわけか。……反吐が出るほどの、狂った理想郷だな」
「ふん! ……まあいい。今日のところは引いてやろう」
マグナスは忌々しそうに吐き捨てると、薄笑いを浮かべて指を突きつけた。
「……ただしだ! あのクソガキのルイスと、あの黒髪のメイドを速やかに出頭させろ! 奴らは私の忠実な部下を殺害したのだ。この罪を見過ごすわけにはいかん」
「断る。……と言ったら?」
「ほう。ならば我ら騎士団と真っ向から戦争でも始めるかね? 貴様ら裏社会のドブネズミどもには圧倒的に分が悪いぞ? なにせ我らは、戦争における殺戮のプロフェッショナルなのだからな。……どう判断するかは、貴様自身の明晰な頭脳に任せるとしよう。……行くぞ!」
吐き捨てるや否や、豪奢なマントを翻して去っていくマグナス。
引き上げる部下の騎士たちは、まるで後足で砂をかけるような卑劣さで、客たちのテーブルのグラスを肘でなぎ倒し、石畳の床へ盛大に唾を吐き捨て、椅子をひっくり返しながらドタバタと戸口から出ていった。
バタンと重々しい扉が閉まり、静まり返った店内。
「ふぅ……」
どこか疲弊したため息を吐いたヴィクターは、血の滲む右手を押さえながら、背後の壁際に向けて静かに呟いた。
「……もう出てきていいぞ、ルイス君」
すると、整然と高級酒瓶が並べられた巨大な棚の裏から――
「か、帰りましたね……。いやぁ、生きた心地がしませんでしたよ~」
ひょっこりと顔を出したルイスが、情けない声を漏らしながら胸を撫で下ろした。
「もうっ! なんなのよ一体アイツらっ?! 何が騎士を頂点によ、神様にでもなったつもりかしらっ?!」
物陰から姿を現したリリィも、苦々しく毒を吐く。
「ヴィクターさん……その、なんだか本当にすみません。僕たちのせいで、お店をこんな目にあわせてしまって……」
ルイスが申し訳なさそうに頭を下げると、ヴィクターは左手で首を横に振った。
「いや、ルイス君。君が頭を下げる必要などどこにもないよ。むしろ君は、最高の判断をしてくれた。いくら偽装依頼だったとはいえ、もし我らギルドの手でユーリー氏を本当に殺害してしまっていたら……想像するだけで恐ろしい」
もしあの武器商人を仕留めていれば、裏社会のパワーバランスが崩壊するだけに留まらない。ユーリー・バウトの背後には帝国内部の大貴族のみならず、隣国を含む各国の軍部上層部が深く利害関係を結んでいる。最悪の場合、隣国との停戦協定が破棄され、再び泥沼の全面戦争へ突入する火種になりかねなかったのだ。
リリィが険しい表情でルイスの横顔を覗き込む。
「……ねえルイス、かなりマズイわよ。もし騎士団が聞き込みや捜査を本格化させたら、アンタが私の宿に寝泊まりしてることが一発でバレるわ……」
その指摘を受け、ヴィクターはシルクのハンカチで右手の傷口を固く縛りながら、静かに提案した。
「確かにその通りだ。……ルイス君、君はしばらくの間、安全な場所へ身を隠したまえ。今後については、私も少し冷静になって策を練りたい。……そうだな、別命あるまで待機、ということにしよう」
「えっ? あの……身を隠すって、どこへ行けばいいんですか?」
首をかしげるルイスに対し、ヴィクターは目元に深々と渋いシワを寄せ、ニヤリと不敵に微笑んだ。
「なに、ちょうどおあつらえ向きの隠れ家があるではないか」
「ん……? ああっ! あの場所ですねっ!」
ルイスはポンと手を打った。
そう――そこは、美しい湖のほとりに位置する、孤児たちが今まさに元気に暮らしている、あの事件現場の野営地に他ならなかった。




