24.ペーパー・ターゲット 偽りの標的
『衣食住足りて礼節を知る――そんな言葉をどこかの古書で読んだ気がするが、まさにそのとおりだったようだ。孤児たちは仕事を得て自らお金を稼ぎ、まだ野営と呼ぶべき段階ではあるものの、夜露を凌ぐための頑丈な天幕が四つと、立派な小屋がひとつ与えられた。これには、あの狂気の芸術家先輩と門番のファルコーネさんに感謝するほかない。生活水準が劇的に向上したことで、彼らはもうスリなどの不道徳な手段に手を染めずに済んでいる。……さらには、あの郊外の静かな自然環境が、意外なことにミュイちゃんの精神の安寧に深く繋がっているようだ。……あれ以来、"刻歪み"の発作的症状は一度も発現していない。きっと、あの湖畔の風景が、エルフ族が本来暮らしていた牧歌的な環境に似ているのかもしれない……』
ルイスが風に揺れる小さな手帳にカリカリとペンを走らせていると、すぐ隣から突き刺すような声が飛んできた。
「ちょっと! こんな現場で日記なんて書いてんじゃないわよっ! そういうのは帰ってからにしなさい!!」
怒りの表情で咎めてきたのは、もちろんリリィだ。
「ああ、ごめんごめん。思いついた時にメモしておきたくて……」
ルイスは苦笑いを浮かべながら、手帳を胸ポケットへとそっと滑り込ませた。
「少しは緊張感を持ちなさいよね、このバカ!」
二人が現在、気配を殺して身を潜めている場所――それは、もぬけの殻になった「グレイブ一家」の本部。その建屋の屋根の上だった。
冷たい風が通り抜ける高所で、リリィは小型望遠鏡を覗き込んだ。
「チッ……まだ、ターゲットは現れないようね……」
レンズの向こう、遠くの街角を監視しながら、リリィが焦れったそうに呟く。
「本当に、現れるのかなぁ~?」
膝の上で黒鉄の重厚なクロスボウを抱えたルイスが、どこまでも緊張感のない呑気な声を上げると、
「現れなかったら、報酬は一銅貨たりとも支払われない。ただそれだけよ……」
「ま、まあ……そりゃそうだよねー」
ルイスは頷いて同意するしかなかった。リリィの機嫌は今なお最悪の極みにあったからだ……。うかつな発言をすれば、標的より先に自分が屋根から蹴落とされかねない。
今回の暗殺依頼――それは、帝都の裏路地で猛威を振るう「危険な違法薬物」をさばく大物売人の抹殺であった。
リリィの覗く望遠鏡の視界には、身分を隠すように粗末な平民風の衣服を纏った憲兵騎士団の男が、街角にぽつんと立っているのが映っていた。
要するに、騎士団による「おとり捜査」だ。
しかも指示は逮捕ではなく、現行犯での即座の暗殺・処刑。
一体、本来のクライアントが誰で、どのような裏の意図があるのか……そうした背景はギルドの厳格な掟により、下される実行部隊の二人には一切明かされることはない。
その時だった。
「ルイスっ! 来たわよっ!」
リリィの低い声が空気を緊張で張りつめさせる。
ルイスの表情から一瞬で甘さが消えた。
彼はなめらかな動作でクロスボウの頑丈な弦を引き絞り、金属矢を装填する。
屋根の縁からそっと身を乗り出し、射撃姿勢をとった。
そして、片手にそっと握っていた少量の小麦粉を、空中に向けてふわりと散らせた。
「風向き、北北東へ……やや、強め。上昇気流あり……」
散った白い粉の流れる速度と軌跡から、ルイスは瞬時に空気の密度と風速を計算する。
「ねえ……本当に、このあり得ない距離から当てられるの?」
望遠鏡を覗くリリィの手が、かすかに震えていた。
「んん~……たぶん……いけるんじゃないかな」
「『たぶん』じゃ困るのよっ! 一発で仕留めなきゃこっちの位置が割れるんだから、絶対にミスらないでよねっ!?」
リリィが歯を剥き出しにしてまくし立てる。
ルイスは無言のまま、一本の長い細草を摘み取ると、唇の端にくわえた。
草の繊細な葉先が、風を受けてわずかに揺れる。
それが、目に見えない空気の微小な渦や、気圧の変化を克明に読み取る高精度のセンサーとなるのだ。
極小の揺らぎさえが、この一撃の成否を決定づける。
それもそのはず――現在、二人が位置する屋根からターゲットが立つ街角までの直線距離は、およそ『九百メートル』。
もしこの狙撃が成功すれば、この帝国の歴史上、最長距離射殺記録として後世に語り継がれるレベルの神業であった。
ルイスの呼吸が、完全に停止する。
胸の鼓動すら極限まで緩やかになり、彼の意識は冷徹な石のごとく「無」の領域へと限りなく沈み込んでいく。
九百メートル先、狙いは黒いフード付きの厚手ローブで全身と顔を深く覆い隠した、いかにも怪しげな人物だ。
ルイスの常人離れした異常な視力は、霞の混じる雑踏の向こうで、ターゲットの呼吸の周期すら鮮明に捉えていた。
――だが。
静寂の精霊と化したはずのルイスから、突如として戸惑いの気配が漏れだし、彼の発する澄んだ殺気が微かに変質したのを、すぐ隣のリリィは皮膚感覚で察知した。
「……? ルイス……?」
違和感を覚えたリリィが、思わず望遠鏡から目を外した――その瞬間。
――シュッ!!
空気を切り裂く、鋭い風切り音が響き渡った。
「なっ――!?」
慌ててリリィは再び望遠鏡を目に押し当てる。
しかし、レンズの向こうで繰り広げられた光景に、彼女は目を見開いた。
「ッ?!?! ルイスっ! この大バカ野郎っ!! 外してるじゃないのっ!!!」
最悪なことに、ルイスが放った必殺の一矢は、黒ローブの売人ではなく――なんと囮役であった平民風の騎士の『右手』を容赦なく貫通していたのだ。
手首を射抜かれた騎士は悲鳴を上げて地面に転がり、一方で「違法薬物の売人」とされる黒ローブの人物は、予期せぬ事故に何が起きたのか理解できず、その場でオロオロと周囲を見回している。
「最悪っ! ルイス、何やってんのよっ!! 二射目、早く再装填しなさいっっ!!」
リリィが悪魔の如き顔で命じる。
だが、ルイスはカチャリと静かな音を立ててクロスボウを下ろしてしまった。
「いや……僕は、彼を撃つことはできないよ……」
「はぁっ?! なに寝ぼけたこと言ってんのよっ! 依頼を失敗したらギルドでどういうお咎めを受けるか――」
リリィは半狂乱で絶叫し、ルイスの胸ぐらを掴んで揺さぶった。だが、ルイスの瞳は至って冷静であり、どこか悲しげですらあった。
「あの人……違法薬物の売人なんかじゃないよ。……ユーリーさんだ」
「はぁぁっっ?!!!!」
リリィは掴んでいた手を放すと、慌てて望遠鏡を引っ手繰り、再びターゲットへと視点を合わせた。
フードが脱げかけ、混乱しながら周囲を警戒している男の顔――それは確かに、暗殺者ギルドとも旧知の仲である大物武器商人、ユーリー・バウトその人であった。
しかし、囮役だったはずの騎士は手に激痛を走らせながら地面をのたうち回り、そのすぐ傍らの石畳には、"何か"光る物が転がっている。
「……どういう……ことよッ?!! あのカタブツの武器商人が、違法薬物なんて下賤な商売に手を染めるわけがないじゃないっ!!」
リリィは悔しそうに歯噛みした。
ユーリー・バウトという男は、裏社会においては「金のためなら悪魔にでも武器を売る冷酷な男」と評されることが多い。
しかし、暗殺者ギルドの内部にいる者ならば誰しも知っているのだ。あの男は奴隷や薬物といった、人の尊厳を惨めに踏みにじるような商売を最も嫌悪しているということを……。彼は彼なりに、武器という「鉄と火薬の美学」に異常な誇りとロマンを抱く職人肌の商人なのだ。
「あの人、会うなりユーリーさんにナイフを向けたんだ。だから、僕、思わず……。ねぇ、この依頼、なんかおかしいよ……。僕たち、誰かに騙されたりしてないかなぁ?」
ルイスが、珍しく静かに問いかける。
リリィの脳裏に、滅多に使われない暗殺者ギルドの忌まわしきスラングが思い浮かんだ。
「なるほどね……『ペーパー・ターゲット(偽りの標的)』ってわけね……?! 標的の素性に虚偽があったようね。……ふんっ! なら、あの騎士を殺さなかったのは、アンタにしては上出来な判断だったわね……」
リリィはホッと胸を撫で下ろし、安堵の息を吐いた。
だが――
「あー……でもさ、リリィちゃん。もう遅かったんじゃないかなぁ~? 今頃、あの囮役の騎士さん、死んじゃってるかも?」
「はぁぁぁっ?! どういう意味よっ!!」
リリィは再び弾かれたように望遠鏡を覗き込む。
遠く離れた視界の先――まさに今この瞬間、ユーリー・バウトの影から滑り出すように現れた優秀な護衛兼メイドのマリアが、主人に刃を向けようとした騎士の首を、一瞬の交錯で冷酷に跳ね飛ばしたところだった。
首を失った胴体が血を吹き出し、周囲にいた一般の民衆たちが、――音こそここまでは届かないものの、阿鼻叫喚のパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う姿が見えた。
「あらー……終わってるわね……。っていうかさ……この距離、アンタ、肉眼で見えるっていうの?」
リリィは乾いた声で呟いた。
「……うん。野営の時は、寝る前に星をジッと見つめるのが、遠視の訓練になるからって。そう爺ちゃんに教えられたから」
ルイスが申し訳なさそうに理由を説明する。
「同じ人間とは思えないわ。それより……これ、私達、とんでもなく最悪な面倒事に首を突っ込んじゃったわよ……! こうしちゃいられないわ、捜査網が敷かれる前に一刻も早くずかるわよっ!!」
「う……うん……!」
ルイスは素早い手つきでクロスボウをパーツごとに解体し、専用のバッグへと収めていく。
彼が放った一撃の矢が、この帝都に再び巨大な混沌と血の旋風を呼び込むトリガーになろうとは、この時の二人はまだ知る由もなかった――。




