6.契約書
一夜が明け、差し込む朝光とともに目を覚ましたルイスの覚醒状態は、驚くほどスッキリ爽快なものであった。
昨日の疲れなど微塵も残っていない。快調そのものの身体を促して宿の食堂へと下り、これまた絶品の朝食に舌鼓を打っていた、その途中のことである。看板娘のリリィが、どこから出してきたのか大振りの肉切り包丁を、またも誇らしげに掲げて見せてくれた。
「うわぁ〜、凄いデッカイね〜! これならどんなにぶっとい骨でも一刀両断だね!!」
無邪気な感嘆を漏らすルイスに、リリィは引き攣った笑顔を浮かべる。
そんな微笑ましくも平和な一幕を挟み、満腹になったルイスは自室へと戻った。
そして毎度お馴染みの儀式――脳内劇場を存分に繰り広げ、ベッドの上で悶絶しながらゴロゴロ転がる時間をひとしきり堪能する。
そうして英気を極限まで養った後、例の封書を大切に懐へ収め、意気揚々とギルドへ向かった。
爽やかな風が吹き抜ける目抜き通りを歩いていると、昨日出会った気のいい串焼き屋の大男が目に入った。
ルイスが遠くから親しみを込めて大きく手を振って挨拶を投げかけると――なぜか大男は「うっ」と喉を鳴らし、全身の筋肉を岩のように強張らせてガタガタと震え出していた。
(あー、低血圧か〜。朝が弱いんだなぁ。村にも、何人かいたなぁ〜)
そんな呑気な感想を抱きつつ、ルイスは明るい未来へのドキドキとワクワクで胸を躍らせ、再びあの不気味な骨の飾りがぶら下がった重厚なドアの前に立った。
懐から取り出した封書を一度確認し、念を入れるように頷くと、ドアノブに手をかける。
昨日はその洗練されすぎた雰囲気に圧倒され、気圧されてしまった酒場の景色。
だが不思議なことに、一度足を踏み入れた場所だからか、どこか見知った安心感のある光景として認知できた。
見れば、今日も今日とて、ギルドマスターであるヴィクター・アダムスがカウンターの奥で影のように佇んでいる。
ルイスの姿を認めたヴィクターは、ほんのわずかに、不思議そうに眉根を寄せた。
それに対して、ルイスもまた首を傾げて問いかける。
「あ、あのぅ……時間、早すぎましたか? 言われた通り、持って来たんですけど……」
すると、それまで完璧なポーカーフェイスを保っていたヴィクターが、ゆっくりと両手をカウンターに突き、射殺さんばかりの鋭い眼光を向けてきた。
「ルイス君……君、何もなかったのかね?」
「……はい?」
「昨日、ここを出てから、今日ここに来るまでの間だ。何事も……起こらなかったのか?」
鋭い問いかけに、ルイスは必死で思考の歯車を回転させた。
昨日ここを出てから?
宿に一泊しただけだ。
最高に美味い飯に感動し、ベッドの上で最高の妄想に耽っていただけで……つまり。
「……特に、何もなかったですよ……?」
心底不思議そうにそう答えると、ヴィクターは一拍の沈黙を挟んだ後、重々しく呟いた。
「そうか……」
ヴィクターはルイスがカウンターに置いた封書に手を伸ばした。
(え? え?! ちょっと待って、え? えぇ?!)
ルイスの脳内でパニックの警報が鳴り響く。何故、この人はこんなにも勿体ぶったリアクションばかりするのだろうか。
「この封書の中身は……君との正式な契約書だよ」
ヴィクターは静かに呟きながら、小さな折りたたみナイフを取り出すと、美しく施された赤い封蠟をスッと切った。中から滑り出してきた上質な植物紙を、カウンターの上に滑らかに広げる。
「ここへ来たからには、当然理解していると思うがね。念のため、規約の読み合わせをしておこう」
「あ、は、はい……」
困惑を隠せないまま返事をするルイスだが、頭の中は疑問符でいっぱいだった。これが冒険者としての加入試験なのか、さっぱり見当がつかない。
「まずは、歓迎しよう。よくぞ踏み込んでくれた。歓迎するよ、ルイス君……我が『帝都・暗殺者ギルド』へ」
「……ん?」
ルイスは勢いよく顔を上げた。今、自分の耳を通して脳に達した言語の中に、決定的に聞き捨てならない単語が混ざっていた気がする。
「我がギルドには、絶対の鉄の掟が存在する。『一、脱退者は即刻、抹消する』……」
「え、え? えええっ!? す、すみません! 今、なんと……!?」
一瞬にして、空間の時が止まった。
「ん? 当然のことだろう。ここは、"魔都"と呼ばれる帝国の最深部、暗部そのものだ。一度この闇に足を踏み入れた者が、再び日の当たる道を歩けるなどと思うな……」
ルイスという青年は、確かにうっかり者ではあるが、決してバカではない。
いや、うっかりの度が過ぎているため、客観的な結果だけを見れば大バカに見えるかもしれない。しかし、幼少期からの乱読によって培われた膨大な知識と教養が、彼の脳内には確かに存在していた。
ゆえに――己が犯した『致命的な勘違い』の全貌が、完璧なロジックと脈絡をもって、脳裏に一瞬で浮かび上がってきたのである。
『暗殺者ギルド』――自分はここを、誰もが憧れる『冒険者ギルド』だと思い込んでいた。
『帝都』――自分はここを、長閑で平和な『王都』だと思っていた。
ここまでは、笑えないレベルの致命的な勘違い。
だが、現在のルイスにとって真の絶望は、その先にある大問題だった。
脱退者は抹消……つまり、ここを辞めようとすれば、即座に……殺される。
(どうしてこうなったッ?!!)
ルイスの額から、滝のような冷や汗がダラダラと噴出し始めた。
己の圧倒的かつ壊滅的な間抜けさを、心の底から呪いたくなる。
そういえば、自分を育ててくれた祖父も、口ぐせのように言っていたものだ。
『ハァ……ルイス、お前は狩りの腕だけは抜群だが、その壊滅的な間抜けさ、なんとかならんのかのぅ』
呆れ果てた顔で深くため息をつく祖父の姿が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
思い返せば、そんな「やらかし」は日常茶飯事だった。
猪肉が欲しいという行商人が村を訪れた際、「量が多い方が喜ぶだろう」と勝手に気を利かせ、村の禁足地である凶悪なダンジョンへ単身潜入。巨大なオークを四頭も狩って持ち帰り、村人全員を呆れさせた。行商人は狂喜乱舞してホクホク顔で帰っていったが、なぜか自分が祖父から正座で大説教を食らった理由は、今でもよく分かっていない。
また、祖父が重い病で倒れた際、「ワイバーンの肝が万病に効く特効薬の素材になる」と聞きつけ、山岳地帯に生息していた一際巨大で神々しい個体を狩り倒した。「それはワイバーンじゃなくて竜族だバカ者!!」と怒号を飛ばされ、生きた心地のしない大目玉を食らった。肝を食べた祖父は嘘のように元気に全快したものの、なぜかルイスにはドラゴン・ハントが永遠に禁止されてしまった。
世間の常識をよく分かっていないせいで引き起こした「やらかし」は、まさに枚挙に暇がない。
しかし、今回ばかりは違う。
これまでの「やらかし」とは次元が違う。自分のこのポンコツさが、正真正銘、物理的な死に直結する致命的な状況を引き起こしてしまったのだと、ルイスは恐怖とともに察した。
沈黙するルイスに対し、ヴィクターが怪しむように目を細める。
「……まさかルイス君、知らなかったのかね?」
重々しく、探るような問いが突きつけられた。
(ここで『すみません勘違いでした!』なんて言ったら、今すぐ首と胴体がサヨナラする!!)
ルイスの脳内演算装置が、極限のオーバーヒートを起こしながら超高速回転を開始した。
読書によって培われた膨大な妄想力、創作意欲、そして極限状態における生存戦略が、一瞬にして混ざり合い、渦を巻く。
コンマ一秒の間に走らせた超精密演算――弾き出された唯一の「最適解」を、ルイスは全力で実行に移した。
「……ふっ。ああ……知っていたさ。コチラこそ、色々と試すような真似をしてすまなかったね……」
ルイスはふっと息を漏らすと、優雅な動作でカウンターに肘をつき、どこか影のあるニヒルな笑みを浮かべて見せた。
だが、相手は裏社会の首魁である。
「ほう……ルイス君は、この私を……"死神ヴィクター"を試したと……。そう申すのか……?」
ヴィクターは直立したまま、隠しきれない濃厚な殺気を全身から撒き散らし始めた。凄まじい威圧感が酒場全体を支配する。
(こっわっ!!!! えっ、何この人!? 怒り狂った手負いのドラゴンより殺気高いんだけど!?)
その殺気の恐ろしさを、野生の勘で正しく理解してしまうルイス。
だが、ここで折れるわけにはいかない。
ただの間抜けな田舎者だと見破られた瞬間に、自分の首が物理的に飛んでいく未来しか残されていないのだ。
ルイスは即座に、過去に読んだ『親族にも親友にも裏切られ、世界を業火で焼き尽くそうと画策する、闇に堕ちた暗黒物語の主人公』に着想を得た仕草を、死に物狂いで演じきることに決めた。
「いやー、すまないね、ギルドマスター――ヴィクター・アダムス……噂はかねがね聞いているよ。……それで? 僕は合格なのかな?」
ルイスは不敵な笑みを崩さず、両腕を大きく広げて不遜極まりない態度で問いかけた。
すべては、生き残るために。
すると――。
ヴィクターは苦々しげに、しかしどこか愉快そうに、わずかに口元を歪めた。
「なるほど……ただ者ではないとは思っていたが。まったく、喰えない男だ。今の今まで、完璧な阿呆の演技を決め込んでいたわけか?」
鋭く射抜くような眼光でそう言い募るヴィクター。
(違います! 阿呆は素です! 今、絶賛、命がけの演技中です!!)
喉まで出かかった叫びを必死で呑み込むルイス。
「今までどこで何をしていた? 君ほどの凄腕の情報が、私の耳に入っていなかったのは、解せないがね……」
「おーっと! それ以上の詮索は野暮であり、命取りだよ。たとえギルマスである君であってもね……。そういう世界だろう? お互い、上手くやろうじゃないか」
ルイスはもう半ばヤケクソになりながら、ダークヒーローの演技を突っ切った。
すると、ヴィクターは深く息を吐き出した。
「……ふむ。私も、耄碌したものだな。……よかろう、ルイス君! 君の実力と肝の据わり方はよく分かった。早速、依頼を斡旋するとしよう」
そう言い残すと、ヴィクターは静かな足取りで店の奥の扉へと姿を消していった。
一人残されたルイスは、全身の力を抜いて胸を撫で下ろした。背中は冷や汗でビショビショである。
(あっぶねぇぇぇえええ!! って、えっ!? 暗殺者ギルド!? えっ、本当にどういうこと!?)
あまりの衝撃に、頭の片隅ではまだ現実逃避したい気持ちが残っていた。
隙を見てこの街からすたこら逃げ出せばいいのではないか、という甘い考えが一瞬頭をよぎる。
しかし、カウンターの上に残された契約書に刻まれた文字が、嫌でもルイスの視界に飛び込んできた。
――脱退者は即刻、抹消する。
その容赦のない一文を目にした瞬間、ルイスの額から再び滝のような冷や汗が吹き出すのだった。




