5.喜劇的暗殺劇
呼吸を殺し、影のように踏み込む。
リリィの指先が描いた鋭利な軌跡は、標的の細い首筋――その脈動する頸動脈を正確に捉えていた。
気配も音もない、確実に命を刈り取る純粋なる殺意の体現。
——しかし。
「へぇ~! 凄い包丁! この波紋、コレは凄い鍛冶仕事だね〜」
「……へ?」
リリィの口から漏れたのは、訓練された暗殺者には到底似つかわしくない間抜けな声だった。
握り締めていたはずの柄の感触が、綺麗に消失している。
一瞬前まで己の掌中にあった刃は、どういう理屈か、すでにルイスの手に収まっていた。男は少年のように瞳を輝かせ、刃紋を感心そうに見つめている。
「もしかして、僕がナイフ好きだって気づいちゃったの? いやー、気づいちゃったか〜。だとすると、やっぱりリリィちゃんも、刃物好き?」
「……え、ええ。まあ、そ、その、そうです……はい」
たじろぐリリィの思考は、完全に凍りついていた。己の身に何が起きたのか、脳が理解を拒絶している。
「ええええっ! マジか〜、うわー。イイねぇ〜。気が合うね〜」
心底嬉しそうにケラケラと笑うルイスの笑顔は、あまりに無邪気で、同時に底が知れなかった。
「あっ。え? え? まあ、あの、……はい」
戸惑いは上限を容易に突き抜け、暗殺者としての冷徹な理性はパニックの渦へと呑み込まれていく。
「いや〜。嬉しいよ……。そうかぁ。こんな素晴らしい包丁を使う、リリィちゃんの、そのこだわりこそが、この料理の美味しさの秘密なんだねぇ……」
一人勝手に合点がいった様子で、ルイスは感極まったように深く頷いた。
「は、はい……」
「そう。わざわざ、見せてくれてありがとうね!」
柄を両手で持ち、刃に触れぬよう細心の注意を払って包丁を返してくる。
そして何事もなかったかのように食事へと戻り、焼き立てのパンを千切りながら、楽しげな鼻歌まで歌い出す始末だ。
その時、ルイスの脳内では——未曾有のビッグバンが巻き起こっていた。
(グフっ、グフふふふ……知っている! 僕はこれを知っているぞ……っ!)
今まで読み漁ってきた膨大な娯楽小説の記憶が、落雷のごとく脳裏を駆け巡る。そう、これはまさに——「共通の趣味から始まる甘酸っぱい恋愛喜劇」の超王道ではないか!
確信を得たルイスの妄想エンジンは、限界突破のフル回転を始めた。
——脳内劇場、開幕!
舞台は活気あふれる道具屋街。休日のデートを楽しむ二人。
『ルイスさん、見て見て! このショートソード、凄く素敵……!』
『ふっ、さすがはリリィちゃん、お目が高いね。ほう……これは極上のアダマンタイト製だ』
『でも、私には少し高嶺の花だわ……』
『……確かに、貴族様御用達の高級品だからね……』
切なげに瞳を伏せるリリィ。だが、物語はここで終わらない。
数日後、潮風が吹き抜ける丘の上の公園。夕日に染まる高台にて——。
『実はね……今日は君に、受け取ってほしいものがあるんだ』
『っ!? これって……!』
驚愕で息を詰まらせるリリィの目の前で、ルイスは恭しく片膝をついた。
その手に捧げられているのは、大きな赤いリボンでドレスアップされた、あのアダマンタイト製ショートソード!
『僕と……僕と……僕と、冒険者パーティを組んでください!!』
『……はいっ!』
——そうして、なんやかんやあって、数々の試練を乗り越えた末、二人は見事に結ばれ、末永く幸せに暮らしましたとさ。
〜 fin. 〜
(※ルイス先生の次回作にご期待ください)
その無防備に揺れる後頭部を、穴が開くほど見つめながら、リリィは小さく息を飲んだ。
(動きが、まったく見えなかった……)
記憶も覚束ない幼子の頃から、血と鉄の匂う暗殺術を叩き込まれてきた。
この十数年で葬り去った標的は百を超える。その中には、名を馳せた歴戦の冒険者や、牙を研ぎ澄ませた同業の暗殺者たちも含まれていた。
だが、暗殺者ギルドへの加入を希望してきたこのルイスという男。
あからさまに、次元が違う。
たった数秒の交錯が、リリィの築き上げてきた絶対的な矜持を無造作に踏みにじる。暗殺者として決して見せてはならない屈辱と悔しさがこみ上げ、彼女は奥歯をギリッ! と噛み締めた。




