4.宿屋の娘
「んんん? んんんん??」
簡素な木製ベッドの上で、ルイスは一人、唸り声を上げながらゴロゴロと転がっていた。
ここは帝都の一角に佇む宿屋『白百合亭』の二階、目抜き通りに面した一室である。
一見すると格式が高そうな高級店に見えたが、宿泊費は拍子抜けするほどリーズナブルだった。手持ちの資金が心許ない今のルイスにとって、本格的な冒険者稼業で稼げるようになるまでの節約生活には、許容範囲どころか願ってもない破格と言えた。何より、あの「ギルド」から歩いてすぐの距離にあるのが最高のポイントだ。
しかし、問題はそのギルドマスター――ヴィクター・アダムスから課された「正式加入試験」の内容だった。
『この封書を持って、明日またここへ来るように。……ただし、絶対に中身を見てはならない』
(冒険者ギルドの試験なら、普通は木剣での模擬戦とか、ゴブリン退治みたいな力試しじゃないのかなぁ……?)
あまりに謎が多すぎる。ただの封筒を一晩預かり、明日再び出直すだけ。いくらなんでも意味不明すぎた。
ルイスは起き上がり、サイドテーブルに置かれた封筒を手に取って光にかざしてみた。
手触りの良い、極めて上質な植物紙だ。
裏返せば、赤く艶やかなシーリングワックスで厳重に封印されている。
室内を照らす魔導灯に透かしてみたところで、厚手の紙は固く秘密を閉ざし、中の文字など欠片も読み取れそうにない。
「……ま、いっか~!」
わずか数十秒の思考の末、持ち前の超絶楽観主義が発動し、ルイスは即座に考えるのをやめた。悩むだけ時間の無駄である。ポンと手紙を置くと、そのまま大の字になってベッドへ倒れ込んだ。
「へへっ……これで僕も、夢にまで見た冒険者かぁ~……」
天井を見つめてぽつりと呟いた、まさにその時。
コンコンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。
「はいはーい!」
ルイスは跳ね起きると、山で培った無駄のない身軽な足取りで一気にドアへと歩み寄り、勢いよく解錠して開け放った。
そこに立っていたのは、この宿屋の看板娘だった。歳の頃はルイスより二つ三つ下にみえる。
「あのぅ、ルイスさん。お夕食の準備が整いました。よろしければ一階の食堂へどうぞ」
「おおぅ、リリィちゃーん! ありがとうねー、すぐ行くよ!」
「はい、お待ちしております」
光を吸い込んで輝く艶やかな金髪を、後ろでひとつに結んだ少女――リリィは、淑やかに深々とお辞儀をすると、可憐な足取りで階段を下りていった。
パタン、とドアが閉じられた瞬間。
ルイスは部屋の中央でピョンと飛び上がった。
「ムフフ~! リリィちゃん、めちゃくちゃ可愛いなぁ~! あんなに可憐な女の子、村には一人もいなかったもんなぁ~!」
まるで恋する乙女のようにベッドの上で悶絶しながらゴロゴロと転がり回り、ルイスの妄想脳がふたたび大暴走を始める。
「彼氏とかいるのかなぁ? うーん、あんなに可愛い子なんだから、やっぱり都会の男男したカッコいい冒険者と同棲してたり……うわぁぁ嫌だなぁ、でもありそう……!」
一瞬だけネガティブな方向へ脱線しかけたものの、腹の虫が情けない音を立てて鳴いたことで、速やかに意識が現実へと引き戻された。
「うん! まずは飯だ、飯……!」
欲望にどこまでも忠実な青年にとって、空腹に勝る懸念事項など存在しないのだった。
✢
階下の食堂には木製のテーブルが四つ並べられていたが、店内は閑散としており、ルイス以外の客の姿はなかった。
中央のテーブルにだけ、ぽつんと一人分の料理がすでに並べられている。
不思議に思ったルイスは、厨房に声をかけた。
「あれ? リリィちゃん、他のお客さんはいないの?」
「はい。あいにく本日はご宿泊様が少なくて……ルイスさん以外のお客様は、すべてお部屋で召し上がるとのことでしたの」
大きな鍋からスープを柄杓ですくい、小皿で味見をしながらリリィが朗らかに答えた。
「へぇ~、そうなんだ~」
「どうぞ、お席にお着きくださいね」
促されるまま椅子に腰掛けたルイスの前に、スープ皿を抱えたリリィがそっと歩み寄る。その瞬間、ルイスの瞳が爛々と輝いた。
「うわぁぁ……美味しそう! すごく豪華だぁ……!」
真っ白な磁器の皿に盛られていたのは、こんがりと黄金色に焼き上げられた半身のチキンソテーだった。立ち上る湯気からは、濃厚な焦がしバターの芳醇な香りと、食欲を激しくそそる香辛料のスパイシーな香りが部屋いっぱいに広がっている。その脇には、焼き立ての柔らかそうな白パンが惜しげもなく添えられていた。
すぐ隣に滑り込んできたリリィが、具だくさんの深皿スープを恭しくテーブルへと置く。
「さあどうぞ、温かいうちに召し上がれ」
「いただきます……」
ルイスは胸の前で両手をキュッと合わせ、小さく呟いた。
それを見たリリィが、くすりと可憐に微笑んだ。
「フフッ、面白い仕草ですね。何か特定の宗派のお祈りか何かですか?」
「あ、いや……これは、その。ウチの爺ちゃんが『命のある食べ物をいただく時は、必ずこうやって感謝を捧げろ』って……」
ルイスは少し恥ずかしそうに打ち明けた。
思い返せば、故郷の村でもこんな奇妙な作法を守っていたのはルイスの家だけだった。山で獲った鹿や熊を捌く時、祖父はいつも恐ろしいほど厳かな顔で祈りを捧げていたのだ。
「そうでしたのね。素敵な教えですわ。それでは、ごゆっくりどうぞ……」
優しく目を細めたリリィは、パタパタと軽やかな足音を立てて厨房の奥へと戻っていった。
(うわ~、スープも野菜がゴロゴロ入ってる! こんなの絶対美味いに決まってるじゃん!)
ルイスのテンションは最高潮に達していた。
故郷で食べていた塩煮込みの肉やパサついた黒パンに比べれば、これは間違いなく都会の洗練された極上料理だ。まるで幼い頃に読み耽った、お姫様が催す王宮の晩餐会に出てくるご馳走そのものである。
そうだ。自分は今日、ついに憧れの「冒険者」として華々しく第一歩を踏み出したのだ。あの日夢見た、輝かしい英雄のように。
胸を満たす高揚感は最高潮を迎えていた。だからこそ、ここで「品のない田舎者」だと思われるわけにはいかない。なるべく優雅に、洗練された都会の所作で食事を楽しもう――そう、今日出会ったあのダンディなギルドマスターのように。
ルイスは指先でそっと白パンを千切った。
スープに浸す必要など微塵もないほど、ふわふわと柔らかい。口に含めば、香ばしい小麦の風味と豊かなバターの塩気が広がり、これだけで十分にご馳走と言えた。
続いてスプーンを取り、澄んだスープをひと掬いして口へ運ぶ。
じっくりと煮込まれた肉と野菜の出汁が絶妙な塩梅で溶け合い、何重にも重なる奥深い旨味が舌の上で爆発した。
「う、ウチの爺ちゃんの料理の……百倍、いや千倍美味いっっ!!」
感涙にむせびながら、ルイスは思わず素の声を張り上げた。
食堂の雰囲気にそぐわない大声に、厨房の奥から「フフフ……」という可憐な笑い声が漏れ聞こえてくる。
だが――その瞬間。
リリィの細くしなやかな指先が、調理台に置かれた一筋の「研ぎ澄まされた包丁」の柄へとゆっくり伸びた。
華奢な手で、それをギチ……と逆手に握り締める。
口元に薄く可憐な笑みを浮かべたまま、彼女の足取りから「生活音」が完全に消えた。
グツグツと煮立つスープ鍋の音だけが響く厨房から、影のように滑らかな足取りで、ルイスの背後へと忍び寄る。
「うんうん! 美味い、美味すぎるよ、これ!」
慣れないフォークとナイフをぎこちなく使い、チキンソテーを口いっぱいに頬張ったルイスの頭が、幸福感で前後に揺れていた。
その無防備な首筋を、リリィの仄暗い瞳が冷ややかに見据える。
リリィは無言、そして無音のまま、逆手に握った包丁をルイスの首筋目掛けて、一気に振り上げた――。




