3.一杯の洗礼
「へえ、ここが憧れの冒険者ギルドかぁ!」
たどり着いたのは、路地裏の突き当たりにひっそりと佇む重厚な木戸だった。
看板らしきものは見当たらない。
ただ、ドアの正面に大きな動物の骨がひとつ、不気味に吊り下げられている。
牛の骨だろうか。それとも、人里離れた深山に潜む魔獣の類だろうか。
(冒険者ギルドなら、やっぱり魔獣の骨だよね!)
ルイスは一人で勝手に納得し、ワクワクと胸を躍らせた。
だが――ふと、キョロキョロとあたりを見回す。
いくら日陰の路地裏とはいえ、街の目抜き通りからそう離れていない真昼間に、人っ子ひとりいない。ルイスの足元を、痩せた一匹の黒猫が優雅な足取りで通り過ぎていくだけだ。
とはいえ、あの肉屋の店主が教えてくれた外観の徴と何ひとつ狂いはない。
(まあ、そうだよねぇ。物語と現実は違うよね~)
ルイスはあっさりと自分を納得させた。
あれはいつだったか……。夢中で読み漁った英雄譚の真似事をして、ナイフ一本で熊に立ち向かおうとし、祖父に半殺しの目に遭わされた苦い記憶が蘇る。「物語と同じように都合の良い世界ではない。バカモンがっ!」と怒鳴られた、あの幼き日の恥ずかしい一幕だ。
それでも、心のどこかでは、もっとこう……溢れんばかりの活気と熱気に満ちた場所を期待していたのも事実だった。
けれど、ここまで来た以上、憧れの第一歩を目前にして引き返す選択肢など存在しない。理想と現実の些細な差異など、今のルイスにとっては取るに足らない問題だった。
ルイスは意を決し、古びた取っ手に手をかけた。
ギギ……と重苦しい音を立ててドアを引く。頭上でカランカランと、可憐なドアベルの音色が静寂を揺らした。
直後、ふわりと鼻腔をくすぐったのは、鉄の臭いでも男たちの汗臭さでもなく、どこか神秘的な甘さを秘めた花のような芳香だった。
ゆっくりと足を踏み入れたルイスの視界に広がる光景。
一言で表すなら――そこは、恐ろしく洗練された「大人の酒場」だった。
鏡のように磨き上げられた深い琥珀色の床板。
壁面に埋め込まれた魔導灯が、優美で計算し尽くされた影を静かに落としている。
置かれたテーブルや椅子は、使い込まれてはいるものの、一寸の狂いもなく手入れされた一級品ばかり。広々とした店内の奥には、豪奢な一枚板のカウンターが鎮座し、その背後の棚には光を浴びて煌めくガラス瓶やグラスが幾重にも並べられていた。
そして、ルイスはその存在に気がついた。
カウンターの最奥、光と影の境目に、一人の男が立っている。
シワ一つすらない漆黒の給仕服に身を包み、静かにグラスを磨き上げている男。ルイスの位置からは、その逆光に透けるシルエットしか見えない。
(……すっごい本格的なお店だなぁ)
気後れしつつも、ルイスは恐る恐る男へと近づいていく。
呼吸を整え、山で獲物を追う時のように足音を完全に消し去ってしまうのは、もはや体に染みついた無自覚な習性だった。
ルイスが声をかようと間合いを詰めた、まさにその直前。
「……なかなかに、腕が立つようだ。見ない顔だが、どこの組織の者かな?」
ルイスの足がぴたりと止まった。
カウンターの中の男は、磨き上げたグラスを魔導灯の光にかざし、曇りを確かめる素振りを見せている。
だが、その滑らかなガラスの表面に映り込むルイスの姿を、正確に捉えていたのだ。
「……あ、あのぅ。ここって、ギルドで合ってますか?」
ルイスは喉を鳴らし、ようやく声を絞り出した。
すると、男は流れるような所作でゆっくりと振り返る。
綺麗に撫でつけられた黒髪に、整えられた綺麗な口ひげ。歳は、おそらく四十代か……、もしかすると、もう少し若い。
そして何より目を引くのは、左頬を斜めに鋭く走る浅い傷痕。
その両目は、まるで闇夜で獲物を狙う獣のごとく、ギラリと怪しい光を放ってルイスを貫いていた。
「……いかにも。ここがギルドだ。そして、この街で最も格式と節度が求められる――酒場だ」
男はそう告げると、音もなくグラスをカウンターに置いた。
(へぇ~! 都会のギルドって、酒場と兼業なんだなぁ! まあ、ウチも畑仕事と狩りで生計を立ててるし、そういうものなのかなぁ~)
ルイスはまたしても、独自の拡大解釈で完璧に納得してしまった。
「あの、その……僕、加入希望です!」
ルイスが胸を張って宣言すると、男の眉がピクリと動いた。
「……名は?」
「はい! ルイスっていいます! 家名はないので、ただのルイスです!」
男の鋭い視線が、ルイスの皮膚を刺すように注がれる。内面まで暴き立てようとするかのようなその眼光に、ルイスは内心で、
(うわぁ、すっごい見られてるッ!)
と冷や汗を流して焦り散らかした。
だが、男は静かに口を開いた。
「……私が、ここのギルドマスター。――ヴィクター・アダムスだ」
「あ、ギルマス様でしたか! 失礼しました……」
ルイスはぺこりと頭を下げた。
冒険者ギルドの長といえば、傷だらけの大剣を背負った筋骨隆々の荒々しい大男をイメージしていたため、目の前のあまりに紳士的で品のある人物に毒気を抜かれてしまう。
(いやいや、人を見た目だけで判断しちゃいけないって爺ちゃんも言ってたしな! ……ひょっとするとこの人、伝説クラスの、剣の達人なのかも!)
ルイスの脳内妄想が、見当違いな方向へ猛スピードで加速していく。
「加入希望者は久しぶりだ。まあ、座りたまえ。一杯ご馳走しよう」
「は、はぁ。ありがとうございます……」
促されるまま、ルイスはカウンターの前に置かれた、ふかふかの上質な絨毯地が張られた椅子に腰掛けた。
……何から何まで、思い描いていた「夢の冒険者ギルド」とは違っている。
本当なら、もっとこう――
『ケッケッケ! オメェみてーなケツの青いひよっこが、冒険者になりてぇだとぉ?』
『へっ、田舎もんが、一旗あげようとノコノコ出てきやがったか!』
なんて、酒の匂いを撒き散らしたガラ悪くも人間味のある先輩冒険者たちに絡まれ、ちょっとした揉め事になり、なんやかんやあって――
『へっ……オメェ、なかなか、やるじゃねーかよ……』
『ああ。腕は認めてやらぁ。なあ、お前……俺たちのパーティに入らないか?』
拳を交え、互いの腕を認め合いながら友情を育んでいく――そんな、ありきたりで熱いドラマを期待していたのだ。
あまりに妄想の渦に没頭しすぎていたルイスの耳に、ふと声が届いた。
「……イス君。……ルイス君!」
「は、はいっ!?」
ハッと我に返ると、カウンター越しにヴィクターが、底知れない瞳でじっとこちらを見つめていた。
「どうしたのかね? ぼーっとして?」
「あ、これからの、ここでの生活に、胸を躍らせていました……」
正直に白状したつもりだったが、ヴィクターはどこか探るように、わずかに眉の根を寄せた。
だが彼はそれ以上追及せず、くるりと背を向けると、棚に並ぶ無数のボトルの中から一つを手に取った。
「これは、まだ熟成の浅い蒸留酒だ。新入りにはこれで洗礼を施すのが、当ギルドの古くからの慣わしでね。高級品ではないが……なかなかに深い風味がある」
流れるような所作で説明しながら、ヴィクターはクリアな琥珀色の液体を小さなショットグラスへと注ぎ込んでいく。
そして――スーッと、吸い付くような無駄のない動きでグラスを滑らせ、ルイスの目の前でピタリと止めた。
(うわぁ……きれいな酒だなぁ)
ルイスは揺れる液体を見つめた。
酒といえば、故郷の村で祖父の晩酌に付き合い、密かに仕込んだ酸っぱい濁り酒しか飲んだことがない。
こんな都会的で澄み切ったお酒は生まれて初めてだった。まるで物語に出てくる貴族の晩餐会で出される代物のようだ。
(あ、そうだ……!!)
その時、ルイスの脳裏に電撃が走った。
幼い頃に読んだ英雄譚の幕間に書かれていた一文を、奇跡的に思い出したのだ。
――『洗練された社交場において、乾杯の音頭もなく、目上の者が口をつける前に給された酒に手をつけるのは、非礼の極みである』
目の前には、確かな目上の者――ギルドマスターであるヴィクターがいる。
しかし、彼の前にはグラスがひとつも置かれていない。これでは乾杯すらできないではないか。
(危ない危ない! 初日から『マナーのなっていない田舎者』って思われるところだった……!)
ルイスは胸を撫で下ろし、確認のために尋ねてみた。
「……あのぅ。ギルドマスターは、お飲みにならないのですか?」
その瞬間。
試すような冷ややかな眼光を向けていたヴィクターの表情が、目に見えて変わった。
どこか面白がるような、狂気を孕んだ笑みが、その口元にゆっくりと刻まれる。
ヴィクターは、ルイスの前に置かれていたショットグラスをおもむろに手にとると――ためらいもなく、一気に中の液体を自らの喉奥へと流し込んだ。
ごくり、と呑み干すと。
トンッ! と、重厚な音を立ててグラスをカウンターに叩きつけた。
「……よろしい。ルイス君。ひとまずは、合格だ。加入試験に移ろう」
ヴィクターはそう呟くと、再び背を向け、先ほどと同じボトルを手にとった。
そして同じグラスに酒を注ぎ直し、ルイスの前にカツンと置くと、ニヤリと意味深な笑みを残して店の奥へと消えていってしまった。
カウンターに取り残されたルイスは、注がれたグラスと、彼が消えた奥の扉を交互に見つめ、頭の中を無数の疑問符でいっぱいにしていた。
(えっ!? な、なに……!? なんであの人僕のを飲んだの? ええっ!? ぼ、僕……これ、飲んでいいのかなぁ……?)
ギルマスの意図も、さっきの「合格」の意味も、何ひとつ理解できないまま。
ルイスの脳内には、嵐のような戸惑いと困惑だけがぐるぐると吹き荒れていた。




