13.孤児と暗殺者
「……うん。もう、大丈夫だよ!」
ルイスが優しく声をかけると、膝を抱えて丸くなっていた小さな少女が、怯えと戸惑いの混ざった瞳で恐る恐る顔を上げた。
「あ、あ、あの……。私を、つかまえますか……?」
「いやいや。捕まえる気なら、わざわざ助けたりしないってば」
「……痛いこと……叩いたり、しますか……?」
「しないしない! 絶対しないから安心して!」
ルイスはブンブンと猛烈な勢いで両手と頭を振った。
夕暮れの冷たい風が吹き抜ける、連なる石造りの建物の屋根の上。
これほどまでに素早く洗練された手つきでスリをやってのける少女が、なぜおとなしく逃げ出そうとしないのか――理由は極めてシンプルだ。
今二人がいるのが、地上数十メートルの高所だからである。
追手から逃れるためとはいえ、少女を小脇に抱えたルイスが、ほぼ垂直な石壁をあり得ない脚力と速度で駆け登り始めた時、彼女は恐怖のあまり人生で一番の悲鳴をあげ、意識が吹き飛ぶかと思ったのだった。
ルイスは少女の目線に合わせるようにその場にしゃがみ込むと、できる限り柔らかい声音で問いかけた。
「君、お父さんやお母さんはどうしたの?」
「……わかんない……」
「はぐれちゃったの? おウチはどこにあるの?」
「最初から、お父さんもお母さんもいない……おウチは……お兄ちゃんやお姉ちゃんたちと、橋の下で暮らしてる……」
「ん? ……最初からいない? 橋の下?」
「うん……。コジインにいたんだけど、ひどいことばかりされるからって……一番上のお兄ちゃんたちがみんなを連れて抜け出して……それからずっと、橋の下でみんなで住んでるの……」
コジイン――孤児院。
つまり、この小さな少女は身寄りのない孤児。
そして推察するに、その孤児院とやらは福祉とは名ばかりの劣悪きわまる施設であり、耐えかねた年長者の子供たちが幼い子らを連れて脱走。さらに過酷で劣悪な、どこかの橋の下に身を寄せ合って生き延びているのだろう。
ルイスは、少女がぎゅっと握りしめている小さな両手に視線を落とした。煤や泥で黒く汚れ、まるで枯れ枝のように細く痛々しい。
「君、お名前はなんていうの?」
「……ココ……」
「ココちゃん! すごく可愛らしい名前だね!! ……ねぇ、ココちゃん。そのお兄ちゃんやお姉ちゃんたちがいる橋の下って、どこにあるのかな?」
「………………」
ココは途端に口をぎゅっとへの字に結び、視線を泳がせた。
「……お兄ちゃんが、大人には絶対に教えちゃダメだって……。場所がバレたら、またひどい目に遭わされるからって……」
弾かれたように首を振る少女を見つめながら、ルイスはニコニコと笑みを絶やさない裏で、胸の奥に静かで深い重圧を感じていた。
昔、何かの本で読んだことがあった。
繁栄を誇る大都市の影には、こうして社会の仕組みから零れ落ちた子供たちが山ほどいて、大人たちは誰もが彼らを「見えないもの」として処理し、最悪の場合は性根の腐った悪党どもの使い捨ての道具として食い物にされるのだと……。
ルイスが生まれ育った故郷の山村は、貧しく厳しい暮らしだったが、そこには確かな人情と支え合いがあった。
子供は村全体の宝であり、大人たち全員で面倒を見る。
大不作の厳しい冬であっても、子供の多い家庭には村人たちがなけなしの干し肉や穀物を分け与え、ささやかな助け合いの営みが機能していた。
それに比べて、この街の大人たちと、この子たちの関係はどうだ――。
まるで人間に虐げられ、怯え切った手負いの獣である。
ココの怯え揺れる瞳の奥には、大人という存在に対する根深い疑念と諦念の色が、固くへばりついていた。
だが――。
「でもね、ココちゃん。どんな理由があっても、スリ……ドロボーさんは、いけないことなんだよ?」
ルイスは、人さし指を立てて優しく諭した。
……数時間前に平然と人の命を奪ってきた裏社会の暗殺者が何を言っているんだッ!! という話ではあるのだが、それはそれ、これはこれだ……。
「……でもっ。そうしないと、もうみんなの食べ物がないし……お姉ちゃんの病気の、お薬も買えないから……っ」
ココの大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちる。
どうやら状況は想像以上に切迫しているらしい。
(う〜ん……どうしたものかなぁ……)
ルイスはあごに手を当て、真剣に考え込んだ。
一時的な同情で助けたところで、根本的な解決にはならない。
かといって、この幼い少女と窮地に陥っている子供たちを見捨てることなど、ルイスの性分が絶対に許さなかった。
長考の末――ルイスはポケットへ手を伸ばした。
「……ほら、これを持って帰りな」
懐から取り出したのは、ずっしりと重みのある銀貨が三枚。
「……え? ……いいの……?」
「うん! 持っていきな!」
ココがおそるおそる細い手を伸ばしてきた、まさにその瞬間――。
「ただしっ!!」
ルイスが声を張ると、ココのの手がピクリと跳ねて止まった。
「これはね、ただあげるんじゃないんだ。……そう! つまり、前払いだよ!」
「まえばらい……?」
ココはコテンと可愛らしく首を傾げた。
「そう! いつか僕が君に仕事を頼む時のために、その代金を先に払っておくんだよ!」
ルイスは昔読んだ何かの哲学書に書かれていた、お気に入りの一文を思い浮かべていた。
――『人に魚を与えれば、その人は一日食べることができる。人に魚の釣り方を教えれば、その人は一生食べることができる』。
ただ金を与えるだけの気まぐれな援助は、自己満足の偽善でしかない。必要なのは、彼らが自立して生きていくための「正当な対価」なのだ。
「しごと……? でも私……仕事なんて、したことないよ……?」
「そりゃあ誰だって最初は初めてさ! 大丈夫大丈夫! なんとかなるって!」
ルイスは底抜けに明るい笑顔を向けた。
「本当に……? 私なんかに、できること、あるのかなぁ……」
実はルイス、先ほどの喧騒の中での犯行の一部始終をしっかりと観察していたのだ。
ココのあの、無駄のない足捌き、雑踏に溶け込む身のこなし、そして拙いながらも完全に気配と足音を消し去っていた技術。
それはまさに、ルイスが幼少期に叩き込まれた「狩り」の基本そのものであった。
見たところ、ココはまだ十歳にも満たない幼子だ。だとすれば、彼女が秘めている天賦の才とセンスは、ルイスの目から見ても恐ろしいほどの原石と言えた。
「あるとも! だからさ、いきなり押しかけたりしないから、君たちのいる場所を教えてくれるかな? お仕事をお願いしたい時に、連絡がつかないと困っちゃうからさ!」
「う〜ん……んんん……」
ココは小さな眉を寄せて悩み始めた。やはり年長者である「お兄ちゃん」の言いつけを破って良いものか、葛藤しているらしい。
そこで、ルイスは追い打ちをかけるように――。
「はいっ、もう一枚!」
ジャリ、と追加で差し出された輝く銀貨に、ココは驚きで目を丸くした。
「この先の大通りに『白百合亭』っていう宿屋があるのは知ってるかな? 僕は普段そこにいるからさ、お兄ちゃんやお姉ちゃんたちに僕のことを話してみてほしいんだ。で、もし『会ってもいいよ』って言ってくれたら、明日そこに来てくれないかな?」
「シラユリテイ……知ってる。いつも、目つきの悪いお姉さんが、いつもお掃除してるところ……」
「アハハ……アハハハ……」
ルイスの口から乾いた笑いが漏れた。
間違いなくリリィのことだ。
確かに機嫌が悪いときのリリィは、まるで親の仇でも打つかのような凄まじい鬼の形相で表通りの掃き掃除をしている。
「ま、まあそういうことだからさ! ね? お願い。僕はルイス。……ただの、怪しくないルイスだよ」
「ルイス……お兄ちゃん」
「へ?」
「ルイスお兄ちゃん」
ココは小さな指でルイスを指差し、はっきりとそう呼んだ。
(うっ……なんか、めちゃくちゃキュンとくるな……!)
不意の胸キュンに不審な笑みを浮かべそうになりつつ、ルイスは立ち上がった。
「じゃあ、また明日ね! ココちゃん!」
ココの骨ばった小さな手の中に、しっかりと銀貨四枚を握らせる。
そして、「じゃあねー!」と軽快に手を振り、屋根の端へ向かって歩き出したルイスだったが――。
「ルイスお兄ちゃんっっ!!」
背後から、悲壮感の漂う叫び声が響いた。
「へ、え? な、なに!?」
振り返ると腰を引かせたココが、半泣きになりながら。
「私……ひとりで、こんな高いところから降りられないっ……!」
涙目で必死に訴えかけるココ。
ルイスは自分の不手際にハッと気づき、引きつった苦笑いを浮かべた。
「あ……ご、ごめん……完全に忘れてた……っ!」
ルイスはあわてて頭を下げながら、少女の元へとドタバタと駆け戻るのだった。




