2.小説家になろう
宿の自室で、ルイスはひとり机に向かって唸っていた。
「う〜ん……うん……」
眉間にシワを寄せ、穴が開くほど見つめているのは一枚の紙だ。そこには、ルイスの雑で丸っこい文字で、こう書きつけられていた。
――やることリスト。
『1.お金を貯める』
『2.貴族と知り合う』
『3.貴族に養子縁組してもらう』
暗殺者ギルドを穏便かつ平和的に抜け出し、晴れて自由な冒険者になるための、現時点における唯一にして最高の生存戦略。
「こうして書いてみると、簡単そうっちゃあ、簡単そうなんだよなぁ〜……」
紙を両手で持ち上げ、しみじみと呟く。
文字にしてしまえば、わずか三行の情報量。だが、その裏に潜む途方もない時間や労力、あるいは命懸けの苦労といったものが丸ごと行間の外へこぼれ落ちていることに、能天気なルイスはまったく気づいていない。
「……それにしても、いい紙だなぁ」
しみじみと、紙の肌触りを指先で確かめる。
故郷の田舎ではお目にかかれない、雪のように白く滑らかな上質の植物紙。かなりの高級品だが、この帝国では比較的普及しているらしい。
「……勢いで、十枚も買っちゃったけど」
机の隅には、真っ白な紙の束と、灯りを受けてキラリと光る繊細な硝子ペンが置かれている。懐に余裕があったことと、店主の巧みな商談に流された結果だ。散財というのは、どうしてこうも後味が心地よいのだろう……。そんなことを考えていると。
――コンコン! と、ノックにしては少々乱暴な音が二回響いた。
「ルイス! あの女騎士、また来てるわよ。早く下りて来なさい」
ガチャリと扉が開くや否や、不機嫌そうな声を張り上げたのは看板娘のリリィだ。
『あの女騎士』とは、憲兵騎士団のロザーナ・ベルトランのこと。"あの事件の夜"以来、彼女は毎日のようにこの宿『白百合亭』へ足を運び、夕飯を平らげていくのがすっかり日課となっていた。
「はーい、すぐ行く〜」
ルイスが呑気に応えると、リリィは「フンッ」と小さく鼻を鳴らしてパタンと扉を閉めた。
「さーて、今日のご飯はなーにっかなぁ〜♪」
ウキウキ気分で立ち上がったルイスの視線が、ふと、殺風景な棚の一角に留まる。そこには、ぽつんと一冊の本が置かれていた。
――『フォレスタ王国美食令嬢物語』。
「あっ、そうだ! ロザーナさんに返さなきゃ」
女騎士に強く勧められるがまま借り受け、一晩で一気に読了してしまった一冊。とにかく料理の描写が巧みで、読んでいる最中から凶悪なまでに腹が減る恐ろしい作品だった。
本を手にとり、何気なくもう一度机の上へ視線を落とす。
真っ白な十枚の高級紙。
硝子ペンとインク壺。
そして、手に持った一冊の「本」。
次の瞬間――ルイスの脳天に、まるで雷が直撃したかのような激しい衝撃が走った。
「本、書けるんじゃね……っっっ!?!?」
今まで長年、ただの「読者」として物語を楽しんできた。
だが、いま目の前には物語を生み出し、形にするための完璧な素材と道具が揃っている。あとは、己の脳内に渦巻く無限の妄想を、この真っ白な紙の上に踊らせるだけでいいのではないか?
もしも……もしも万が一、どこかの奇特な商会が原稿を気に入ってくれて、写本師を雇って増刷してくれたら?
そしてそれが街中で大ヒットし、人気作家になんてなれてしまったら――。
「お金が……めちゃくちゃ稼げるのではっ!?」
またしても、底抜けな楽観主義からくる恐るべき暴走が始まろうとしていた。
その時、階下からカンカンカンカン! と激しくフライパンを叩く音が響き渡った。
「ルイスッ! 早く来ないとステーキ冷めちゃうわよっ!!」
リリィの怒声が吹き抜けと扉を突き抜けてきた。
「は、はいぃぃぃぃぃ! 今行きまーす!」
ルイスは慌てて本を抱え込むと、床で足を滑らせるドラ猫のごとく部屋から転がり出た。
勢いよく開け放たれた扉から巻き起こった風圧に煽られ、机の上に残された『やることリスト』が、ハラリと虚しく床へ落ちていった。




