44.スキル、覚醒
「ゲホ……ゴホッ……! な、何が起きたのだ……!?」
煙と石粉が充満する厨房から、女騎士ロザーナが激しく咳き込みながら這い出してきた。だが、呼吸を整えようと上げた視線の先――ルイスとリリィの背中の向こうに広がる光景を目にした瞬間、彼女の言葉は凍りついた。
視界の全てを塗りつぶす、圧倒的なまでの血、血、血――。
ホールの床は、見渡す限りの血の池と化していた。四散した肉片と切断された四肢があちこちに転がる、地獄絵図そのものが広がっている。
「あ、あぁ……うぅぅ……助け、て……」
「足が……俺の脚がァァ! ない、どこへ行ったんだよぉぉぉ!!」
運良く即死を免れた者たちが、血溜まりの中で無様に這いずり回り、絶望の悲鳴を上げている。
ルイスは首骨をギギギと異質な音を立てて軋ませると、隣に立つ少女へと引きつった顔を向けた。
「そ、それ……その糸って、一体なんなの……?」
「これ? 一種の暗殺用魔導具よ。魔獣アラクネの吐く糸から余分な脂を抜き取り、錬金術師の秘伝製法で鋼鉄以上の硬度にまで強化したもの。王国からの密輸品だから、相当高かったのよ」
リリィは血濡れた指先で、懐から取り出した掌サイズの小さな銀の糸巻きを揺らしてみせた。
ルイスはゴクリと生唾を飲み込む。
何の躊躇いもなく、たった一瞬で何十人もの人間を無差別に屠る凄惨な作戦を立案し、平然と実行してみせる肝の座りっぷり。
可憐な少女の皮を被ってはいるが、その本質は一切の慈悲を捨て去った生粋の暗殺者なのだと、ルイスは腹の底から理解させられた。
「ルイスさん! 一体……あの男は何者なのだ!?」
ロザーナが惨劇の中心で、両膝をついてこちらを怨嗟の眼差しで睨みつける男を指差した。
「アイツはエルヴィン・プエルト。プエルト商会の本物の会頭よ……」
リリィが感情の失われた声で代わりに答える。
「では、あのロン・プエルトの……?」
「そういうこと、みたいだね……」
ルイスは歯切れの悪い顔で頷いた。
すると――。
「貴様らぁぁぁッ! よくも……よくも俺の手首をぉぉ! 殺してやる! 殺して殺して、殺し尽くしてやるッ!!」
右手首を断ち切られたエルヴィンが、鮮血を巻き散らしながら狂乱の叫びを上げた。その瞳には、人間としての理性がカケラも残っていない。
「……鬱陶しいわね。さっさとアイツも首を撥ねて始末しましょ?」
リリィが冷たく言い放ち、ルイスへ視線を送る。
「ま、待ってくれ! それはならん! 奴は憲兵騎士団が拘束し、厳しく尋問を――」
正義感に駆られたロザーナが慌てて制止に入る。
「チッ……」
リリィは忌々しそうに盛大に舌を鳴らした。
「ハハッ、もう終わりだ! 貴様ら全員、ここで残らず肉片となれ! 我が商会が裏ルートで仕入れた……とっておきの『商品』があるのだよッ!!」
血反吐を吐きながら、エルヴィンが狂気の笑みを浮かべて叫ぶ。
直後――。
ズシ……ズシ……ズシン……ッ!
屋敷の構造そのものを揺らすような、不気味な重低音が響き渡った。壁際の台座が激しく振動し、飾られていた花瓶が転がり落ちて、パリンと床で粉々に砕け散る。
「何よ……!? この音は……!?」
リリィが咄嗟に身構える。
振動と足音は、ホール奥の階段下――重厚な大扉の向こうから確実に近づいてきていた。
「今度は……なんだというのだ……!?」
ロザーナも状況が理解できぬまま、騎士としての本能的な危機感に背中を打たれ、床に転がっていた刃の欠けた粗末なショートソードを拾い上げた。
だが――その絶望的な足音の正体を、ルイスだけは長年の狩人としての鋭利な勘から正確に導き出していた。
「あー……この足音、オークかなぁ〜? でも……故郷の山にいたやつより、かなりデカそうだけど……」
能天気な声が響いたその瞬間――バゴンッ! と猛烈な衝撃音と共に、重厚な大鉄扉が内側から吹き飛んだ。
「グモォォォォォォォォ!!!」
地獄の底から響くような咆哮と共に、その巨体が姿を現す。
手に巨大で邪悪な石斧を握りしめた、異常なまでに肥大化した豚型の二足歩行魔獣。
――魔獣オーク。それも、通常の個体を遥かに凌駕する異形化を遂げた『変異種』だった。
「ハッハッハッハッ! お前らはこれでおしまいだぁ! 醜いバケモノの腹の中に納まるがいい!!」
エルヴィンが狂乱の笑い声を上げる。
「チッ……あんなモノまで売買の対象にしてたわけ? どこまでも悪趣味ね……」
リリィが苦々しく吐き捨てる。
「ククッ……王国には、魔獣を手懐け使役する『テイムの魔導士』が存在するのだよ! 私はその力を商会の武力として転用する計画を立てていたのだ……! これでプエルト商会はこの帝都の裏も表も統べるはずだった! 貴様らのせいで計画が何年も遅れるのだ、その命で償ってもらうぞ!!」
エルヴィンは己の勝利を確信し、積年の憎悪と暗殺者どもを抹殺できる歓喜から、ベラベラと饒舌に語り立てる。
リリィは冷や汗を流しながら、ルイスに彼の愛用する黒鉄のクロスボウを投げ渡した。
「アンタ……アレ、狩れる?」
「う〜ん……。故郷の村だったら、経験豊富なベテランの狩人が十人掛かりで罠を仕掛けて、ようやく倒せるかどうかかなぁ……」
ルイスが困ったように頭を掻きながら答える。
「そりゃ……絶望的ね……」
ルイスと同等の戦闘力を持つ者が、あと九人は必要なのだ。だが、この場にいる戦闘能力保持者はたったの三人。
「しかし、アレは言葉が通じる相手ではないのだろう!? 立ち向かうほかない!!」
ロザーナが気丈に叫び、ボロボロのショートソードを構え直した。
「まあ、やるだけやってみますか〜」
ルイスはクロスボウをカチャリと手際よく構えた。
照準をあわせ、指先で引き金を絞る。
シュンッ――!
鋼鉄の矢が高速で疾走する。だが――。
グサッ! と矢はオークの広い額に深々と突き刺さったものの、あまりにも分厚い頭蓋骨を撃ち抜くには至らない。
「グモォォォォ!?」
オークは鬱陶しそうに額を手のひらで払い、刺さった矢をへし折った。
「あっら〜……全然効いてない……」
ルイスは即座に二発目を装填し、放つ。
しかし、野生の直感から危機を察知したオークは、丸太のような太い右腕を上げて顔面を庇った。矢は分厚い前腕の肉に空しく刺さる。
「ありゃダメだ……。人間で言ったら、ハチに刺されたくらいにしか感じてないみたい……」
ルイスの口から、珍しく弱気な言葉が漏れた。
「どうすんのよっ!?」
リリィの悲痛な絶叫。
眼前にそびえ立つオークの巨躯は、人間以上――体長3メートルを遥かに超えている。
そして、その濁った瞳が、ルイスたち三人を明確な「屠るべき敵」として認識した。
「グモォォォォォォォォ!!」
巨体の肉を波打たせ、オークが一直線に突進を開始した。
床の大理石が足音と共に叩き割られていく。
「撃て! 撃て撃て! 何でもいいからっ、やれやれ!!」
リリィが半狂乱で指図する。
ルイスは疾走する巨体へ向け、次々と矢を射ち込んだ。しかし、鋼の如き筋肉と分厚い皮下脂肪に吸い込まれるだけで、致命傷には程遠い。
「ヤバっ! 矢がもう切れた!!」
「嘘でしょ!?」
「散れッ!!」
ロザーナの咄嗟の判断。
だが――。
間一髪、ロザーナは短剣の腹でオークが振るった大振りな石斧の一撃を受け止めた。しかし――。
パリンッ! と澄んだ音を立ててショートソードが粉々に砕け散り、ロザーナの身体は吹き飛んで壁へ激突した。
「ロザーナさん!」
ルイスの叫び。
「くっ……この、醜悪なブタがぁぁ……!」
額から血を流しながら、膝を震わせて立ち上がろうとするロザーナ。
もしも。ここで追撃を受ければ一命はない。ルイスは反射的に懐へと手を突っ込み、露店で買い集めた無数のナイフを次々と引っ張り出すと、極限の投擲技術で投げて放った。
シュシュシュシュンッ!
オークの背中に、一瞬にして数本のナイフが深く突き刺さる。
「ブガァァァァ!?」
背中に走った鋭い痛みに、オークは巨体を反転させて振り向いた。
「へへぇーん! こっちだ、こっち!!」
ルイスは両手を振って跳びはね、過激にオークを挑発する。
「アンタ! 正気!? 何のつもりよ!?」
リリィの非難の声が飛ぶ。
「えっ、だって! ロザーナさんが殺されちゃいそうだったし……!」
「ここであの女騎士に消えてもらった方が、アタシたちにとっては都合がいいでしょうが!!」
「はぁぁ!? リリィちゃん、何を言ってるの――」
「こんな現場を見られて、生かしておけるわけないでしょ、このお人好しのバカ!!」
「そ、そんなぁ〜〜!?」
ルイスは涙目になって叫ぶ。
「ちょっと、とにかく逃げるわよ! こっちに来なさい!!」
リリィの甲高い絶叫が屋敷に木霊する。
巨体に似合わぬ速度で、ドドドドドドッと突進してくるオーク。
「糸は!?」
ルイスが叫ぶ。
「これ使いなさいっ!」
リリィは糸巻きをルイスへ投げ渡した。
ルイスは身を低く屈めると、神速の足取りで正面から突進を開始する。
正面衝突必至のチキンレース。
ルイスはオークに向かって真っ直ぐ突き進んでいく。
そして――オークの間合いに入った直後、フワリと霞のようにルイスの姿が視界から消えた。
「よしっ! 首にかかった!!」
気がつけば、ルイスはオークの丸い肩をポンと踏み台にして頭上へ跳躍、離脱していた。
その一瞬で、首元へ鋼鉄糸を巻きつけることに成功したのだ。
「死ねッ! このバカ豚がぁぁぁぁ!!」
リリィは思いっきり腰を落とし、全身の体力を込めて力任せに糸を引き絞った。
運が良ければ、頸動脈を切断できる、はずだった。
「グモォォォォォォォォ!!」
「えっ……!? きゃぁぁぁっ!?」
切り裂くどころか、異次元の筋力を誇るオークは力任せに首を振った。
糸を手ぐり寄せられたリリィの細い身体が、逆に凧のようにオークの元へと猛スピードで引き寄せられていく。
「リリィちゃん! 糸を離して!!」
「簡単に切れる構造じゃないのよこれ!!」
引き寄せられたリリィの細い首を、オークの太い指先がガシッと鷲掴みにした。
「ぐふっ……!?」
宙に持ち上げられ、苦悶の表情を浮かべたリリィの身体がブラブラと揺れる。
だが――暗殺者としての矜持と執念は、まだ潰えていなかった。
リリィは腰のホルダーから一振りの投擲ナイフを抜き放つ。それは、かつてルイスからプレゼントされた物。
それを、至近距離からオークの顔面へ向けて、投げる――!
ブヂュウッ!!
刃はオークの左眼球へと深々と突き刺さった。
「ブモォォォォォォォォォ!!」
猛烈な激痛に半狂乱となったオークは、掴んでいたリリィの身体を力任せに投げ捨てた。
「リリィちゃん!!」
床をゴロゴロと無残に転がっていくリリィの小さな身体。だが運悪く――その体は、エルヴィンの足元で止まった。
エルヴィンは顔を歪め、ニヤリと凶悪に微笑むと――リリィの歪む横顔を、靴底で思い切り踏みつけた。
「がっ……は……っ」
激痛に肺の空気を吐き出し、リリィの意識が白く反転しかける。
エルヴィンは左手でリリィのポニーテールを強引に引っ掴むと、彼女の身体を無理やり引き起こした。
「ほら、起きろよ小娘。お前のかわいい男友達が、豚の餌になって噛み砕かれるところを特等席で見届けるんだ」
「くっ……」
最低最悪の絶望的な状況。ルイスは奥歯が砕け散らんばかりに歯を食いしばる。
だが――。
「グモォォォォォォォォ!」
まずは目の前に立ちはだかるこの巨大な魔獣を倒さなければ、誰一人として生きてここを出ることはできない。
ルイスは静かに息を吐き出し――思考の箍を外した。
生涯で、たった二度目となる『暴走』を、自らの意思で開始する。
――あれは、いつのことだったろうか……。
伝説とされていたドラゴンを、たった一人で狩り尽くした、あの夜のこと。
生還した自分を迎えた祖父との、懐かしいやり取り――。
『いいかルイス? もう二度と、一人でドラゴンに挑むような真似はするな。絶対にだぞ?』
『ええ〜? でも爺ちゃん、本当にアレってドラゴンだったの? 思ったより全然強くなかったし……』
『ハァ……いいか? お前にはな、普通の人間には存在しない……特別な才があるのだ』
『え、本当!? なになに?』
『正確には、誰の体内にも眠ってはいるが、それを意図的に引き出すのは極めて難しい領域の力……"スキル"と言ってもいいかな』
『へぇ~、スキル! なんだか物語の勇者様みたい! なんて名前のスキルなの!?』
『そうさなぁ……しいて名付けるとしたら……』
『うんうん!』
『……【火事場のクソ力】じゃ』
ルイスは脳裏に浮かんだ、温かい思い出の一ページをそっと噛み締めた。
(爺ちゃん……。今なら、これを使っても……いいよね?)
その瞬間――ルイスの両瞳に異変が起きた。
静かに瞳を閉じ、次の瞬間に見開いた時――その瞳孔は、猫科の肉食獣、あるいは真なる竜族を思わせる、縦に裂けた神秘的なエメラルド色へと変貌を遂げていた。
「グモォォォォォォォォ!」
オークの雄叫び。
だが、向かい合っていたルイスの姿が――今度こそ、完全にこの世界から消失した。
音速の壁を突き破る、人間離れした跳躍。
グサァァッ!!
先ほど、リリィが傷つけたオークの潰れた瞳孔へ、疾走したルイスの手にする愛用のナイフが再び深々と突き立てられた。
「ブモォォォォ! ガァァァァァ!!」
厄災となって暴れ回るオーク。ルイスを振り解こうと巨体を激しく揺さぶる。
「死ね! 脳味噌まで届いて死ねぇぇ!!」
ルイスは腕ごとオークの眼腔へズブズブと深く押し込んでいく。どれほど強大な魔獣であっても、脳幹を破壊されれば死に至る。
だが――ガシッ! と、オークの太い腕がルイスの首を固く掴み上げた。
ルイスも負けじと、オークの耳を千切れんばかりの力で握り返す。
しかし――。
(くそっ……これじゃあナイフの刃渡りが足りない……!)
首を絞め上げられ、ルイスの意識が遠のきかける。
その時――。
「ルイスさん! これを使え!!」
ロザーナが渾身の力で投げ渡したものが、宙をくるくると回転して飛んできた。それは――先ほど折れたショートソードの残骸。
ルイスはオークの目に刺さっていたナイフを引き抜くと――。
パシッ!
宙で折れた剣身を見事に受け止めた。
刃は短くなっているが、ナイフよりは遥かに長い。だが、突き立てようとしたルイスの腕を、オークのもう片方の腕がガッチリと掴んで止めた。
「ヤバっ……!?」
完全なる詰み。絶対絶命。
「やめろっ! ルイスさんを放せぇッ!!」
いつの間にか駆け寄っていたロザーナが、オークの腕にしがみつき、体重をかけて引き剥がそうとする。だが、その巨体には痛痒すらない。
その時――エルヴィンに頭髪を掴まれていたリリィの口から、誰もが耳を疑う信じがたい叫びが上がった。
「女騎士ッ! ルイスの腹を……思いっきり殴りなさいッ!!」
「はぁぁぁ!?」
「小娘、何の錯乱だッ!?」
エルヴィンがリリィの首を締め上げる。
「ぐっ……いいから! 早く殴りなさいッ!!」
もう、他に打開策がないのなら――!
「ルイスさん! ごめんなさいッ!!」
吊るされ、ジタバタと脚を掻くルイスの無防備な腹部へ、ロザーナは全身の筋力を乗せた全力の拳をめり込ませた。
ズドンッ!!
次の瞬間――。
「うぶっ…………。ゲボぉぉぉぉぉっ!?」
戦場に最悪かつ凄惨な光景が広がった。
ルイスの口から吐き出された大量の吐瀉物が、狂乱して大口を開けていたオークの口内へとダイレクトに噴射されたのだ。
「ブバァァァァァァッ! ゴバァァァッ!?」
あまりの不快感と悪臭に、オークは目の前にいた二人を力任せに薙ぎ払った。
「うわぁぁぁ!?」
「キャァァァァ!!」
床を転がり、壁際まで吹き飛ぶルイスとロザーナ。
そして――吐瀉物を顔面と口内に浴びたオークはといえば。
「グ……ググゥ……ガ、ガッ……!?」
両手で自らの首元を激しく押さえ、ヨロヨロとたたらを踏み始めた。
巨体が小刻みに震え出し、それはどんどん激しくなる。褐色だった全身の皮膚が、みるみるうちに死人のような青白色へと変色していく。
やがて――ガクンと両膝をつき、そのまま地響きを立てて突伏した。
巨獣はそのまま、静かに、動かない肉塊となった。
「えっ……? どういう……こと……?」
「な、なぜ? え、えぇ……!?」
上半身を起こしたルイスとロザーナが、呆然と呟く。
すると――エルヴィンに掴まれたままのリリィから、乾いた呆れ声が聞こえてきた。
「フッ……。巨大魔獣でさえ一瞬で即死する猛毒が効かないなんて……。アンタの身体、本当にどうにかしてるわよ……」
あの、ワイングラスにリリィが仕込み、ルイスが「マズイ〜っ!」と吐き出しながらも体内に残っていたあの猛毒――それこそが、強大な魔獣を絶命させた、極めて"汚らしい切り札"だった。




