42.悪魔が来たりて鍋を振るう
石窯の冷たさに背を預けながら、リリィは過熱した息を整え、低く静かな声で言葉を紡ぎ出した。
「いい? よく聞きなさい。私たち暗殺者ギルドの主な得意客であり、最大の資金源になっているのは……主にどこかの貴族たちよ。それは知っているわね?」
「……あ、そうなんだ……」
ルイスは目を丸くし、この期に及んで初めて知る裏社会の構造に間抜けな声を漏らした。だが、リリィは気にした風もなく言葉を重ねる。
「だからよ。もしアンタが『貴族』に……つまり、暗殺者を雇う側に回り、ルールを書き換える特権階級になれば話は別。その立場を利用して手を回せば、ギルドを追われることなく、正当に足を洗うことができるわ」
「で、でも……僕みたいなただの平民が、貴族になるなんて……」
「方法はあるわ。たとえば――貴族籍そのものを、金で買う」
「え、買えるの!?」
「金に汚い貴族のツテさえ掴めれば、大金を積むことを条件に『養子縁組』という形で籍を入れる手がある。……ただし、オズワルド・ブコナーみたいな下っ端貴族じゃ意味がないわ! せめて伯爵か、侯爵。ギルドに圧力をかけられるほどの大貴族にならないとね……」
それこそ、あまりにも荒唐無稽な妄言。
伯爵や侯爵といった大貴族の籍を平民が金で買うなど、不可能なのはリリィ自身だって百も承知だった。
絶望的な状況下での、ほんの気休めにもならない戯れ言に過ぎない。
しかし――。
リリィが口にしたその言葉と、ルイスが胸に抱き続けてきた「冒険者になりたい」という切実な夢、そして今まさに突きつけられている絶対絶命の死線。
それらが極限状態で重なり合い、ルイスの思考の限界を容易く突き破った。
現実逃避の果てに、提示された情報の断片だけが、彼の過熱した脳内で強引かつ過剰なスピードで組み上げられていく――。
――暗殺者ギルドを抜けるには、大貴族になる。
――そのためには、とんでもない大金が必要になる。
――そしてその前に、この絶望的な状況を打破し、自分とリリィの顔を見た背後にいる全員を……一人残らず、"殺す"必要がある……。
短絡的な発想と、彼が生まれ持った常軌を逸した楽観主義が、毒液のように混ざり合う。
暗殺者ギルドの"鉄の掟"という呪縛を断ち切り、憧れの冒険者として陽のあたる場所へ歩み出す――その具体的な道筋が、初めて眼前に示された瞬間だった。
ルイスの精神領域が、恐ろしいほどの速度で加速していく。
かつて、辺境の村で共に暮らしていた祖父は、この状態に陥ったルイスをなんと形容していただろうか……。
ワイバーンの群れに包囲された時。
タイラント・ベアの不意打ちを受け、背後から巨大な爪で肉を裂かれた時。
そして、死に瀕した祖父の命を救うため、伝説の竜族へと単身で挑みかかった時。
その無我の境地にあるルイスを――祖父はため息交じりに、こう呼んでいた。
――"暴走"と。
「アハっ! アハハ〜っ、なんだぁ〜! 方法はあったんだぁ〜! いやぁ……良かったぁ!」
ルイスは緊張感を綺麗に吹き飛ばし、ヘラヘラと狂気じみた笑みを浮かべ始めた。
その瞳から光が消え、底なしの深い虚無と、常軌を逸した捕食者の彩りが宿る。
「……ルイス? アンタ……」
その横顔に漂う尋常ではない気配を察し、リリィは思わず怪訝そうに眉をひそめた。
だが、ホール側からは猶予を許さない怒号が響き渡る。
「魔導士ども! その厨房ごと奴らを焼き尽くせ! 生かし捕る楽しみは減るが構わん、魔法をぶち込めぇっ!!」
エルヴィン・プエルトの冷酷な命令。
それを聞いたリリィは、素早く自らの懐へ手を差し入れた。
「アンタ……体術と身のこなしだけは、無駄にすばしっこいわよね? ……ちょっと作戦を思いついたわ。耳を貸しなさい」
石窯の陰、死と隣り合わせの数秒間で、二人は密やかに言葉を交わした。
そして、その直後――。
「――《火炎球》!」
痺れを切らした魔導士の一人が詠唱し、手元から高熱の火魔法を解き放った。
これを皮切りに、左右に待機していた魔導士たちも次々と手元で火魔法を展開しはじめる。
狭い厨房は一瞬にして燃えさかる炎の地獄と化し、の中に潜む二人の暗殺者は焼き尽くされるか、全身に大火傷を負って命乞いをしながら這い出てくるはずだった。
誰もが、その惨惨たる結末を確信していた。
だが――。
「えっ……?」
術者が、その人生の最期に目撃したもの。
それは、まるで空気を切り裂くように、巨大な銅製の寸胴鍋を両手に高く掲げて眼前に跳び出してきた――。
狂気と、無邪気さが入り混じった、悪魔のような笑みを浮かべる青年の顔だった。




