41.起死回生
ロザーナ・ベルトランは呼吸すら削ぎ落とし、屋敷の窓枠に身を潜めて内部の惨劇を覗き込んでいた。
(こ、これは……一体、何が起きているのだ……!? ルイスさん! それに、あの者たちは……!)
目の前で目まぐるしく展開する異常事態に、思考が追いつかない。頭の中は混乱の濁流に呑み込まれていた。
その時――背後の鬱蒼とした草むらで、微かな足音が踏み砕かれる。
「だ……ぐっ?!!」
直後、首骨を砕かんばかりの強烈な腕力がロザーナの喉元を締め上げた。気道が潰れ、視界の端が明滅する。
「ケッへっへっへ……。おいおい、女騎士様じゃねえか……。こっちも存分に楽しめそうじゃねえの……?」
鼓膜を揺らす、耳元から流れ込む生温かく汚濁した吐息。その一言だけで察しがついた。この男は、法と秩序を踏みにじる側の――明確なる、騎士の敵。
ロザーナは反射的に右手を腰へ走らせた。だが、指先はむなしく空を掻く。
(しまった……! 今は非番……!)
長年連れ添ってきた愛用の短剣は、宿舎の部屋に置いてきてしまっていた。
「おいおい、どうしたあ? もっと暴れてみろよ。俺はなぁ、嫌がる女を力ずくで叩き伏せるのが大好きなんだよ……!」
粘つくような醜悪な言葉が、ロザーナの騎士としての尊厳を激しく逆なでした。
怒りで脳味噌が沸騰する。――次の瞬間、彼女の記憶の底からある「鉄」の感触が蘇った。
素早く懐へ指を滑らせる。
「ぐっ! ぐはああぁっ!!」
取り出した刃を迷わず背後へ突き立てた。
男の喉仏を穿ったのは、かつてルイスから気まぐれのように贈られた、湾曲した異形の刃――カランビットナイフ。
喉を断ち割られた男が撒き散らす熱い血飛沫を浴び、ロザーナは心底からの嫌悪を込めて顔を歪めた。
「気安く……騎士の身体に触れるな!!」
呼吸を乱したまま、ロザーナは男の太い両腕をガチリと掴み込む。そのまま腰を深く落とし、体重の全てを乗せて前方へ投げ飛ばした。鮮やかな背負い投げ。
ガシャァァァンッ!!
豪快な音を立てて窓ガラスが粉砕され、男の巨躯が屋敷のホールへと叩き込まれた。
「誰だっ?!」
「うわっ、なんだっ?!」
不意の乱入者に、プエルト商会のならず者たちが一斉に色めき立つ。
「チッ……外にも潜んでいたか?」
エルヴィン・プエルトが苦々しげに舌を打つ。
室内の全視線が窓の外へと集中したその隙を逃さず、ロザーナはすばやく壁の死角へと身を隠す。そして、窮地を脱するための咄嗟の暴挙――命がけのハッタリを思いつく。
肺腑の限りを尽くし、威厳に満ちた声を屋敷内に響かせた。
「私は憲兵騎士団第一執行隊隊長である! 貴様らの包囲は既に完了している! おとなしく武器を捨てて投降せよ! 繰り返す、ただちに投降せよ!!」
紛れもない嘘、以外の何物でもない。
今、この場にいる味方は、囲まれているルイスとリリィの二人だけ。
まさに多勢に無勢。
しかし、ロザーナの放ったブラフは、敵の心理を激しく揺さぶった。
「け、憲兵だと……!?」
「おい、どうすんだよ! いま踏み込まれたら、俺たち全員縛り首だぞ!?」
動揺の波が瞬く間に広がっていく。だが――。
「狼狽えるな、愚か者ども!」
エルヴィンの怒声が混乱を強引にねじ伏せた。
「所詮は剣しか持たぬ騎士だ! こちらにはクロスボウと魔導士隊がいるのだぞ! 憲兵だろうと何だろうと、ここで蜂の巣にしてしまえば何の問題もない!」
悪党としての狂気と腹括りはとうに済んでいた。エルヴィンは冷酷に手を振る。
「とにかく、あの二人を縛れ! 地下の拷問室へぶち込め!!」
「は、はいっ! ……ん? あ、あれ……?」
指示を受けた部下の一人が、間抜けな声を上げて目を見開いた。
「どうした?! さっさとやれっ!」
「そ、その……男が、いません……」
「……は? 何だと?」
見れば――『スパイダー・リリィ』の隣にいたはずの少年、ルイスの姿が跡形もなく消え去っていた。
リリィは床に片膝をついたまま、口角を吊り上げて不敵に笑っている。
エルヴィン・プエルトの背筋を、氷の刃で撫でられたかのような冷たい予感が駆け抜けた。
その直後――。
「よっと!」
「ぐぼがぁぁぁっ!?」
いつの間にか部下の背後に滑り込んでいたルイスが、無造作にナイフを横一文字に閃かせ、男の首を刈り取っていた。
「貴様っ! いつの間に――!?」
隣の護衛が慌ててクロスボウの照準をルイスへ合わせる。
「あ、僕、服が血で汚れるの嫌だから。あっち向いてね!」
ルイスは頸動脈から噴血させる男の頭部を鷲掴みにすると、強引にクロスボウの射線上へと押し向けた。
「ぶわっ!? く、くそっ……!?」
正面から顔面に温かい血を浴びた男は、混乱のあまり反射的に引き金を引いてしまう。
シュバッ――!
途砲の響きと共に放たれた鋼鉄の矢。
「あがっ!?!?」
矢は吸い込まれるように、二階の回廊に立っていた魔導士の開いた口内へと突き刺さり、首の後ろから血濡れの矢先を覗かせた。
魔導士は大口を開けたまま、何が起きたかも理解できずに手は空を掻き、ヨタヨタと二、三歩歩いてから力尽き、手すりを越えて床へと落下した。
仲間の魔導士たちは顔面を蒼白に変え、「ひぃっ!」と悲鳴を上げて後退る。
誰もが言葉を失い、惨死した味方を見つめることしかできない。
「ルイス! あと何人いける!?」
混乱の隙を突き、床を転がったリリィが床に刺さっていたナイフを引き抜く。
「う〜ん……あと十人くらいかな?」
「あそ、なら任せた!」
リリィは間髪入れずナイフを投擲した。鋭い一閃がエルヴィン・プエルトの喉元へ迫る――。
「会頭っ! グハッ……!」
間一髪、会頭を庇って割り込んだ部下の胸元にナイフが深く突き刺さる。
男は血の泡を吹いてドサリと崩れ落ちた。
「クソがぁっ! 殺せ! そのガキどもを殺せぇぇっ!!」
護衛たちに抱えられ、後ろへ引きずられながらもエルヴィンは狂ったように叫び散らす。
ルイスが腰のホルダーから夜店で買った安いナイフを抜き放ち、投擲でさらに一人の命を刈り取ったその直後――。
「ルイス! こっち! 上の連中が射ち降ろしてくるわよ!」
リリィの鋭い警告。
疾風のような身のこなしを止めたルイスが回廊を見上げると、そこには自分たちを見下ろし、一斉に狙いを定める無数のクロスボウ……。
「うわっ! ヤバっ!?」
ルイスは全力で床を蹴った。
リリィが瞬時に判断した遮蔽物――それは、ホールの中央に打ち捨てられていた頑丈な鉄製の配膳ワゴンだった。
ルイスは転がりながらその下へ潜り込む。
直後――頭上から無数の矢が豪雨となって降り注いだ。
ガガガガガンッ!
激しい金属音が鼓膜を打つ。
身を縮こませた二人を、分厚い鉄の天板が完璧に守り切っていた。弾かれた矢が虚しく床を跳ねる。
「ほら、シャキッとしなさい! あっちの扉へ移動するわよ!」
「へ、へぇあっ!?」
前方を窺えば、一階の護衛たちが距離を取ろうと引いていくのが見えた。
手薄になった画角――その先には重厚な木製の扉。外部へ繋がる逃げ道かもしれない。
「いくわよ! せーのっ!」
「おりゃぁぁぁぁぁぁ!!」
二人はワゴンの脚をガチリと掴み、屈んだ姿勢のまま不格好な疾走を開始した。見た目はまるで鉄の甲羅を背負った巨大なヤドカリ。
だが、その分厚い鉄板は迫り来る死の雨をことごとく弾き返した。
勢いそのままに扉へ激突すると、ルイスは意を決して上半身を乗り出し、ドアノブを強引に捻った。手の数センチ脇に矢が突き刺さり木片が弾け飛ぶが、気にする余裕などない。
二人はワゴンの影から転がり出るようにして室内へとなだれ込み、内側から扉を蹴り閉めた。
そこは――。
「いてて……え、ここって……まさか?」
「……厨房、みたいね……」
ルイスの不安げな呟きに、リリィが氷のように冷たい肯定を返す。
すぐさま、扉の向こうから荒々しい足音と叫び声が押し寄せてきた。
「追え! 逃がすなっ!」
「ハハッ、バカめ! 袋のネズミだっ!!」
死角のない完全な閉鎖空間。包囲网が縮まっていく。
ルイスは飛び起きると、調理台に整然と並べられていた包丁の中から大型の肉切り包丁を引っ掴んだ。そして、ドアの隙間から覗いた影に向けて全力で投げつける。
「ガッ……!?」
先頭の追手の額中央に肉切り包丁が深々と直撃し、男は目を見開いたまま仰向けに倒れ伏した。
「くそっ……往生際が悪すぎだろっ!?」
「アァァァァ! このクソガキがぁぁぁ?! あぁ、ハキムを殺りやがったあぁぁ! 許さねえ、切り刻んでやる!!」
殺気立った男たちが慎重に壁へ身を潜め、厨房の内部を伺う。
そしてドタドタと駆けつけたクロスボウ隊が、扉の破片越しに室内へ向けて再び矢の雨を撃ち込んだ。
「ヤバっ、このっ!!」
「え、うわっ!?」
リリィはルイスの首根っこを強引に掴むと、大型の石窯の死角へともつれ込むように倒れ込んだ。
シュタン! シュタタタアンッ!
石窯の壁の破片が激しく弾け飛ぶが、分厚い石造りの構造物は、どれほど強力な矢であっても穿つことはできない。
「ハァ、ハァ……っ」
石窯の背に体を預け、激しく肩を上下させるルイス。その視線が、ふと石窯の頭上へと向けられた。
「ね、ねぇリリィちゃん! あ、あそこ! あそこから逃げられるよ!」
指差した先には、小さな排気用の小窓。小柄な二人なら、なんとか脱出できるサイズだった。
だが、ルイスの瞳に灯ったかすかな希望は、リリィの容赦ない一言によって脆くも打ち砕かれる。
「……今さらここを脱出したところで、暗殺者ギルドから追われる身になるだけよ」
「え……えぇぇぇっ!? なんでさ!?」
「顔を見られたからよ。面が割れ、裏で手配書が出回れば暗殺者は終わり。その瞬間から、私たちはギルドの粛清対象として世界中から狙われる……」
「あ……あぁ……」
ルイスは頭を抱えてその場にへたり込んだ。
どう足掻いても絶望。
たった二十年しか生きていない、人生の終着点。
自分はただ、物語に出てくるような冒険者に憧れ。
人々から祝福されるような英雄的な冒険がしたかっただけなのに――。
黒い絶望が、ルイスの心を塗りつぶしていく。
しかし――リリィは冷ややかな瞳の奥に、密やかな火を宿して囁いた。
「……でも。もしアンタが、この場を何としても生き延びる覚悟があるなら。暗殺者ギルドを『正当に抜け出す方法』を、教えてあげなくもないわ」
「え……?」
それは、暗闇の中に垂らされた一筋の糸。
「……正直に言って、暗殺者ギルドを生きて抜けた人間なんて、過去に一人もいない」
「そ、そ、そんなぁぁ〜〜っ!?」
話が違うと、ルイスは半泣きでリリィにしがみつこうとする。
「――だけど、理論上は不可能じゃない。そう思うわ」
「えっ!? どんな方法なのっ!?!?」
ルイスは縋り付くような目でリリィを見つめた。生き残るための起死回生の裏技が、彼女の口から語られることを疑わなかった。
だが、その時――ホールからエルヴィンの下劣な高笑いが響き渡った。
「おとなしく出てこい、ドブネズミども! フフッ、貴様らの仲間か? この威勢のいい女騎士も捕らえたぞ! コイツがどうなってもいいのか!?」
「ルイスさん! 私に構うな! 騎士の誇りに賭けて、私はどんな屈辱にも屈しはしないッ!!」
ロザーナの悲痛な叫び。
ルイスが石窯の影から恐る恐る覗き込むと――そこには、エルヴィンの部下たちに両腕を拘束され、膝をつかされたロザーナの姿があった。
ルイスから完全に力が抜け落ち、床へとうずくまる。
「あぁ……僕のせいだ……。僕のせいで、ロザーナさんまで巻き込んで……」
自責の念に囚われ、ブツブツと呪詛を吐き始めるルイス。
「ちょっと……! しっかりしなさいよバカ! 暗殺者を辞めて、冒険者になりたいんでしょ!?」
「僕の……僕のせいだ……」
「聞きなさいっての! アンタ、本気でここから生きて出たくないわけ!? 諦めるの!?」
リリィはルイスの胸ぐらを掴み上げると、自らの顔を至近距離まで寄せた。
その瞳には、荒々しいまでの生への執着が宿っている。
ルイスは涙目になりながら、力なく首を横に振った。
「なら……手段は一つよ!」
「えっ……本当に? リリィちゃんも、ロザーナさんも助かるの……?」
「もう……バカ! 他人の心配なんて後回しにしなさい! アンタが暗殺者ギルドの追撃を逃れ、冒険者になる道は一つしかないの!」
「で、でも……前例はないんでしょ……?」
「そうよ、前例なんてない。――なら、アンタが……"最初の前例"になりなさいよっ!」
「ほ、本当にそんなことができるの……!?」
「おそらく……できるわ。論理的には……間違いなくね」
生と死の狭間で曖昧な問答が交わされる中、ホールからエルヴィンの苛立つ声が飛ぶ。
「おい! 小汚いガキども! 出てこないと、この女騎士の指を一本ずつ切り落とすぞ!?」
ルイスの全身が恐怖でガクガクと震える。
リリィは両手でルイスの頬を強く挟み込むと、逃げ場を塞ぐように真っ直ぐその瞳を射抜いた。
「リ、リリィちゃん……僕、どうしたら……!?」
怯えきって歯を鳴らすルイスに対し、リリィは鉄の意思を込めて言い放った。
「アンタ――貴族になりなさい」
「……え? は?」
ルイスの思考回路が、完全に停止した。




