40.疑念
澄んだクリスタルの中で、深紅の液体が妖しく揺れた。
リリィは執事の手から新たなグラスを受け取ると、ワゴンに残されていたもう一つのグラスも優雅な所作で手に取り、エルヴィン・プエルトへと差し出す。
「私の、新たな雇い主に。……乾杯しませんこと?」
唇に浮かべたのは、夜の闇に咲く毒花のように儚く、それでいて蠱惑的な微笑み。
「……ふ、ふむ……。ああ、いいだろう。従順な女は嫌いではないからな。特に――お前のような若い女はな」
男の顔が、品性を欠いた不快な欲望に歪む。肥満した手を伸ばし、グラスを掴もうとしたその瞬間――。
パシッ、と冷ややかな衝撃音が室内に響いた。
エルヴィンの手首を制したのは、背後に佇んでいた執事の、硬質で冷たい手だった。
「……少々、手癖が悪い女狐のようですな……」
「な、ナニっ?!」
執事の鋭い眼光がリリィの指先を射抜く。
彼は主の手から強引にグラスを抜き取ると、静かな足取りでツカツカと歩み、ルイスの前で足を止めた。
「君が、飲んでみたまえ……」
唐突に目の前に差し出されたグラスに、ルイスは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で目をキョトンと見開く。
「……ッ?!」
リリィの喉から、かすれた息が漏れた。
周囲を囲む部下たちの間に、ピリッとした緊張が走る。誰もが察した。この幼き女暗殺者が酒に毒を仕込み、それをこの老練な執事が即座に見抜いたのだと。
しかし――その緊迫した空気の渦中にいながら、何も分かっていない者が約一名。
「え? いいんですか?」
どこまでも呑気な声を上げ、ルイスは何の疑いもなくグラスを受け取った。そして、何の躊躇もなく、ごくりと喉を鳴らして一口飲んでしまう。
直後――。
「……ま、マズイ〜っ!」
ルイスは盛大に顔を顰めると、口の端からダラダラと赤ワインを溢れさせた。あまりの不味さに涙目になりながら首を振っている。
……どうやら、執事の抱いた忌々しい予感は外れたらしい。
「ふんっ! 高級な酒の味も分からんとは……。これだから下民は……」
エルヴィン・プエルトはルイスを心底見下したように吐き捨てると、苛立ちにまかせてリリィの手から残されたグラスをひっつかみ、一気にその酒を呷った。
ゴクゴクと喉が鳴る。
執事は不審の色を消しきれぬまま、疑念の籠もった視線でリリィを見下ろした。
「……小娘、お前、敢えて怪しげな動きをして我々を試したのか?」
その問いに、リリィはゆっくりと振り返った。
そして――無邪気を装うように、ペロッと可愛らしく舌を出す。
だが、その桃色の舌の上に載っていたのは、指先ほどの小さな――空の小瓶だった。
「ッ?!! ま、待て……!!」
執事が悟り、牙を剥いて手を伸ばそうとした、まさにその時。
ガシャンッ!
乾いた音を立てて、グラスが床に砕け散った。
「……ウグッ?!!!」
エルヴィンが自らの喉元を押さえ、顔面を土気色に染めて悶絶する。口からは苦悶の泡が溢れ出し、耐えきれずに膝から崩れ落ちた。
「クソっ! この、小娘がぁぁぁ!」
激昂した執事は、一歩踏み込むと同時に力任せにリリィの頬を張り飛ばした。
バチンッ! と肉を打つ鈍い音が室内に響く。強烈な衝撃に弾き飛ばされ、リリィは床に這いつくばったが、声ひとつ上げない。
「……リリィちゃん!」
血相を変えたルイスが、倒れた彼女の元へ駆け寄る。
一方、床でのたうち回っていた男は――。
「ゴハァ……っ!」
大量の血を吐き散らし、自らが流した血の海の中に倒れ伏した。血に染まる顔面からは生気が完全に失われ、瞳は焦点を結ばないまま開かれている。紛れもない即死だった。
「お前……自分のグラスにだけ毒を盛ったのか?」
吐瀉物と血の匂いが充満する部屋で、執事は忌々しげにリリィを睨みつけた。
床に倒れたまま、リリィの唇から漏れたのは掠れた嘲笑だった。
「フフ……フフフッ……。いいえ、両方よ。このバカには、毒が効かないだけ……」
「な、なんだと?! では……」
「暗殺者の覚悟を……舐めるんじゃないわよ……。アンタたちが、私のような小娘に対してどんな拷問をするか……そんなこと、分かりきっていたこと……。私はただ、それが……死んでもイヤだっただけよ!!」
血を吐き捨てるように叫ぶリリィの言葉に、執事は苦々しく奥歯を噛み締めた。
まさか、己の身を毒で蝕んでまでターゲットを道連れにし、自害を図るなどという捨て身の策を講じてくるとは、あまりにも想定外だったからだ。
「……もういい、茶番は終わりだ」
執事は冷ややかに呟くと、冷徹な笑みを浮かべた。
「お前たち、コイツらを捕らえよ。本物の地獄を見せてやる」
リリィは強く睨み返し、苦しい呼吸の合間に問う。
「アンタも……ただの執事じゃなさそうね?」
すると、執事はニタリと醜く顔を歪ませた。
「ああ。さすがは『スパイダー・リリィ』、察しがいいな。……そう、私がエルヴィン・プエルト。このプエルト商会の、正真正銘の現会頭だよ」
「なるほどね……。兄弟揃って、"同じ手"を使っていたわけか……」
「そのとおり。そこに転がっているのは、私のダミーさ。……いやぁ、おかげさまで助かったよ」
本物のエルヴィン・プエルトは、息絶えて血の海に横たわる男の腹を、革靴のつま先で胸糞悪そうに蹴り上げた。
「リ、リリィちゃん……? ぼ、僕、なんだかその……もう何が何だか、さっぱりで……」
状況の変転についていけず、ルイスは狼狽しながらしゃがみ込み、震える手でリリィの細い肩を掴んでいる。
「まあいい。久々に楽しめそうな見世物だ。慕い合う者同士、二人揃って受ける拷問というのは、精神的にも効果的でね……」
「別に……私はコイツのことなんて、これっぽっちも慕ってないけど?」
「リリィちゃぁぁぁん?! そんな酷いこと言う?!」
非情なる宣言に、ルイスはついに耐えきれず惨めな声を上げて号泣し始めた。
「さーて……何日耐えられるかな? 爪をひっぺがし、指を一本ずつ削ぎ落とし、お互いの肉を喰らわせてやろう。小娘が汚され絶望の深淵に沈む姿を、小僧が許しを請いながら眺めることになるのだよ……」
「ふんっ、悪趣味ね……。よく言われない? 死んだお兄ちゃんとそっくりだって」
顔を腫らし、苦痛に喘ぎながらも、リリィは不敵に口角を上げ、尚も強気な態度を一切崩さない。
「ふむ。ただ地獄を見せるだけでは生ぬるいな……。まあ、身の程を知らぬ暗殺者の末路など、所詮そんなものだ。諦めろ……」
狂気に満ちたエルヴィン・プエルトの瞳が、逃げ場のない二人を無慈悲に見下ろしていた――。




