39.絶対絶命
近づいてみれば、その邸宅のスケール感は遠目からの想像をはるかに凌駕していた。
かつては主とその一族に加え、数十人の使用人が慌ただしく行き交っていたであろう大邸宅。苔むした外壁や砕けた彫刻が時の流れを物語っているが、漂う威容は今なお衰えていない。
リリィは滑らかな動作で一階の窓辺へ忍び寄ると、そっと室内を窺った。
「ダメね……。分厚いカーテンで完全に覆われているわ」
呼吸の音すら消したリリィの囁き声が、ルイスの耳を打つ。
「うん……。気配からしても、みんな上に集まっているみたいだね」
ルイスも頭上を見上げ、闇の中にほのかに浮かび上がる微かな明かりと、そこに蠢く息づかいを感じ取っていた。
「よし。ここから侵入するわよ……」
リリィは外套の裏から一筋の薄いナイフを抜き、窓枠の施錠部分へ巧みに滑り込ませた。
カチリ――と暗闇にひそやかに響いた微かな金属音に、緊張の糸が張り詰めていたルイスの身体がビクッと跳ねる。
「ほら、アンタが先に行きなさい」
「は……はいっ!」
ルイスは促されるまま、開かれた窓枠からそっと室内へと身を乗り出し、カーテンの隙間から暗がりを覗き込んだ。
「どう? 中の様子は……」
「う、うん……真っ暗だよ。だけど、誰もいない。かな?」
「なら、ぐずぐずしないで早く入りなさい!」
「ちょ、ちょっと押さないでよリリィちゃん!」
ワタワタともつれ合うような不格好な格好で、二人は窓枠を越えて広大な邸宅の内部へと足を踏み入れた。
「やっぱり、見張りすら配置していないようね……」
足音を殺し、リリィが小さく安堵の息を漏らしたその瞬間だった。
「……ッ?! リリィちゃん! こ、これマズいよ! 囲まれてる――!」
ルイスの皮膚が、総毛立った。
無音のはずの闇の中から、あらゆる方向から突き刺さるおびただしい数の鋭利な殺気。狩人としての生存本能が、激しい警鐘を鳴らす。
次の瞬間――。
パッ! と眩い光が部屋全体を満たした。
「クソッ、何よ?!」
「え、こ、コレって……えぇ?!」
突如として照らし出された室内に目が眩み、二人はもつれ合うようにしてホールの中央へと踏み出してしまう。
そして、光に目が慣れた二人が恐る恐る頭上を見上げると――。
カチャリ! カチャリ!!
吹き抜けになった二階の壮麗な回廊から、二人を見下ろす無数の男たちの姿があった。
その大半が手にしていたのは、ルイスの愛用品ほど洗練されてはいないものの、ズラリと照準を二人へ合わせている……木製の武骨なクロスボウであった。
「くっ……まんまと嵌められた、というわけね……」
リリィは唇を噛み締め、奥歯をギリリと鳴らした。
「えっ? えっ! えぇぇ!!」
高所からぐるりと自分たちを取り囲み、冷酷な視線を投げかけてくる大人数の精鋭たちを見渡し、ルイスは一瞬で完全なパニックへと陥る。
静まり返るホールに、重々しい靴音が響いた。
中央の大理石の階段から、衣服を押し破らんばかりに肥満した初老の男が、優雅に歩み下りてくる。
男は舞台役者のように両手を大きく広げると、朗々とした声をホールに響かせた。
「ようこそ、暗殺者のお二方……。お招きした覚えはありませんが、心より歓迎いたしますよ……」
その見下すような不快な笑みに、リリィは優美な身のこなしでスカートの裾を少し持ち上げ、完璧な作法でカーテシーを披露してみせた。
「あら? それは失礼いたしました。どうやら招待状を途中で落としてしまったようですわね。それでは本日はこれにて、お暇させていただきますわ」
「まあまあ、そうお急ぎなさるな……。せっかくの客人をご馳走も振る舞わずに帰したとあっては、我らプエルト商会の名に傷がつきますからな……どうぞ最後まで楽しんでいかれよ」
男は、下品な脂みを帯びた顔でニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。
「ハァ……。無駄なお芝居はお互いやめにしましょうか? ひとつ教えてちょうだい。どうやって私たちの襲撃を事前に察知したの? まさか……うちのマスターが情報を売ったとでも?」
リリィの瞳に冷ややかな疑惑が走る。この裏切りが、自分たちを送り出したヴィクターの手によるものなのかという疑念。
「フッフッフ! 種明かしをしてあげましょう。我が商会は『気配察知の魔法』を得意とする特別警護を雇っておりましてね……。君たちがこの屋敷に足を踏み入れる数キロも前から、彼らは君たちが纏う微量な魔力を捉えていたのだよ」
男が誇らしげに指し示した先――二階回廊の影には、深い濃紺のローブを深く羽織った不気味な一団が佇んでいた。
リリィの顔色が変わる。
「まさか……魔導士ッ?!」
「フッフッフ! その通り。我が商会が莫大な資金を投じ、隣国から極秘裏に招聘した実に頼もしい警備部隊ですよ」
本来、この帝国には魔導士なる存在は公式には立ち入れないはずだ。
彼らは非合法な手段を用い、国外から異能の武力を引き入れていたのだ。
「なるほど……合点がいったわ……。だけど、なぜ私たちが暗殺者ギルドの人間だと特定できたの?」
「フッ……実はね、我々はギルド内部に『一匹の飼いネズミ』を所有しておりましてね。……残念ながら、彼は先日バラバラの肉塊にされてしまいましたが」
「ブロウ・ガスリー……?!」
リリィの全身が激しい怒りで震えた。
先日、ギルドの掟を破って粛正された男。ブロウは殺される直前までプエルト商会と通じ、ギルドの内情を売り払っていたのだ。
「察するに……君が『スパイダー・リリィ』。そして、そこにいる情けない男……」
「は、はいっ!」
鋭い指を突きつけられ、ルイスは条件反射で背筋をピンと伸ばしてしまう。
「貴様がルイスだな? ……楽に死ねるなどと思うなよ。お前は私の兄……ロン・プエルトを殺した。まるで屠殺場の家畜のようになっ!!」
その名を聞いた瞬間、ルイスの顔から一切の血の気が引いた。
この帝都へとやってきて、己の正義感の暴走により初めて命を奪った男。
その肉親から放たれる凄絶な怨嗟の殺気が、奔流となってルイスに襲いかかる。
「あー、えーっと……あれは、その……ちょっとした事故と言いますか……人違いと言いますか……!」
「ブロウから全て聞いているのだよ! 貴様が兄上を殺ったのだろう!! 兄上が味わった以上の絶望と苦しみを、お前にはじっくりと味わってもらうぞ……!」
エルヴィンの咆哮に、ルイスの全身から滝のような冷や汗が噴き出した。
すると、隣に立つリリィが、口元を動かさずに酷く小さな声で囁いてきた。
「アンタ……拷問とか、耐えられそう? 間違ってもギルドの極秘事項までゲロしないでね……」
リリィの哀れみの視線に、ルイスの目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。
(完全に終わった……僕の人生の終着地はここだ……!)
頭を巡らせても、この絶体絶命の窮地を打開する手段など何ひとつ思い浮かばない。八方塞がりの絶望に打ちひしがれるルイス。
「もちろん、お嬢さんにも色々と聞きたいことがあるのだ。……あの鬱陶しい暗殺者ギルドを壊滅壊滅させるためにもね。その次は、忌々しいユーリー・バウト工房も丸ごと潰し、我らプエルト商会が再びこの帝都の裏社会を牛耳るのだっ!」
高らかに勝利を宣言するエルヴィン。
ルイスはすがるような思いでリリィへ救いを求める視線を向けた。
しかし――そこで想定外の事態が巻き起こる。
「あらっ? それなら私を助けてはくださらないかしら? 私も喜んであなた方に協力しますわ。あんな落ち目の暗殺者ギルドなんて、今この場で裏切ることにします」
リリィがフッと艶やかな笑みを浮かべ、あっさりとそう言い放ったのだ。
「え、えぇぇぇっ?!?!?」
ルイスは飛び出さんばかりに目を見開いた。
「ほほぅ……? それが真実なら、私に証明してもらえるかね?」
「ええ、おやすい御用よ。……今から私が、このルイスを殺してみせますわ!」
突如としてリリィは狂気的な素早さで振り返ると、ルイスの胸ぐらを力任せに掴み上げた。そして、右手に握りしめたナイフを頭上高く振りかざす!
「ひ、ヒィィィっ?! リリィちゃん?!」
喉を引き裂くようなルイスの悲鳴がホールにこだまする。
「待てっ!」
制止の声が飛び、リリィの手に握られた刃が、ルイスの首一ミリのところでピタリと静止した。
「ふぅ……まあ良いだろう。言っておくが、暗殺者ギルドを裏切るより、このエルヴィン・プエルトを裏切る方が遥かに恐ろしい目に遭うぞ?」
威圧するように凄んでみせるエルヴィンだったが、階段の下に置かれていたワゴンへ歩み寄ると、ボトルを取ってグラスにワインを注ぎ始めた。
だが――なぜだろうか。
エルヴィンの手は微かに震えており、グラスとボトルの触れ合うカチカチという音が鳴っている。
リリィが乱暴に手を離すと、ルイスは糸が切れた人形のようにドサリとその場に尻もちをついた。
リリィはしなやかに振り返ると、エルヴィンへ向けて可憐に微笑みかけた。
「ふぅ……。なんだか、喉が渇いてしまいましたわ。私にも、そのワインを一杯、下さらないかしら……?」
言い終えると同時に、リリィは手首を滑らせ、ナイフを投擲した。
シュタッ!
鋭い風切り音とともに放たれたナイフは、エルヴィンのすぐ傍らに控えていた執事の足元、わずか数センチの床板に見事刺さってみせた。
驚愕に目を見開く館の人々を余所に、リリィは流れるような動作で自らの美しい髪をかき上げ、ゆっくりとエルヴィンへ向かって歩み寄っていく。
その手の中には――つい今しがた、ルイスの胸ぐらを掴んだ刹那、彼の首元から鮮やかにひったくった「小さな薬瓶」が、固く握りしめられていたのだった。




