38.月が導く禁断浪漫
「で、アレで本当に良かったわけ?」
静まり返った暗闇のただ中、リリィの氷のように冷ややかな声が低く鼓膜を揺らした。
「う、うん……。あの場を穏便に収めるには、アレしか……なかった、と、思うんだ……」
ルイスは額ににじむ脂汗をぬぐいながら、先ほど暗殺者ギルドのカウンターで繰り広げられた、胃が千切れそうなほどの、修羅場寸前の光景を思い返していた。
突然やってきた女騎士ロザーナと、カウンターでパスタを食していたリリィの、不意の鉢合わせ。
一触即発の緊迫感が店内の空気を張り詰めさせ、暗殺者たちの下世話な噂話が燃え上がる。
その瞬間――追い詰められたルイスの口から飛び出したのは、あまりにも苦し紛れなデマカセだった。
『じ、実はねっ! ロザーナさん。彼女は――リリィちゃんは、僕の幼い頃に生き別れた実の妹なんだよ! アハ、アハハ、アハハハ〜……』
『な、なんだ! そうでしたかっ! 妹さんでしたか! いや〜、私ったら、てっきり……』
安堵の笑みを浮かべ、照れくさそうに後頭部を掻くロザーナ。
こうして間一髪、ギルド内での血で血を洗う惨劇、あるいはルイスの社会的抹殺は回避されたわけだが――。
「私がアンタみたいな、へらへらした間抜け面と似てるって言いたいの?!」
「いふぁい、いふぁいよ、ひひーひゃん!!」
暗闇に乗じて、リリィの細い指先がルイスの両頬をぎゅーっと力任せに引っ張る。
ルイスは涙目で必死に弁明しようとするが、みょ〜と伸ばされる頬の激痛のせいでまともな言葉にならない。
リリィの逆鱗に触れたのは、ルイスのデマカセそのもの以上に、直後にロザーナが発した無邪気な一言だったのだ。
『確かに、言われてみればルイスさんに似て、とっても聡明そうな目をしていらっしゃる!』
と……。
「何が聡明そうだ、何が生き別れの兄妹だ! 私はそんな呆けた目なんてしていない! 絶対にぃッ!」
「ヒィィィぃぃぃぃ!! ごびぇんなはぁい!!」
千切れんばかりに引っ張られ、ついにルイスの目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。だが、頬を歪めながらも、彼の胸中にふと現実的な焦燥感が走った。
(いや、ちょっと、こんな場所でバカをやっている場合じゃなくない……っ?!)
その願いが通じたように。
「……まったく」
冷たく吐き捨てると、リリィはすっと指を離した。
――そう、彼らは今、生死を分ける"仕事"の最中なのだ。
今回のギルドからの指名依頼――『帝都郊外の湖畔に潜伏中の、プエルト商会残党の完全抹殺』。
木々の隙間から見下ろす先、鏡のように静まり返る湖面に影を落とすその建物は、かつて貴族の御料地に建てられた豪華絢爛な別邸であった。
水辺に映える美しき白亜の館。
しかし今は持ち主を失い、伸び放題の蔦と風化に侵され、かつての栄華の残骸を晒す巨大な廃墟と化している。
「確かに……館のニ階に、明かりが灯っているわね」
湿った草むらに身を潜め、リリィが鋭い眼光で建物の様子を伺う。
「イテテ……。うん、でも、外の見張りとかは……全然いないみたいだね……」
赤く腫れ上がった頬を押さえながら、ルイスもリリィの隣に並び、そっと茂みから顔を出した。
「完全に油断しきっている? ……いや、まさかね。あの往生際の悪い連中が、そこまで隙だらけなわけがないわ」
「もう、みんなぐっすり寝てるとか?」
「ハァ……。もしそうなら、あくびが出るほど楽な仕事ね。……だったらアンタ一人で潜入して、さっさとヤってきなさいよ」
呆れと侮蔑を隠そうともしない横目で、リリィがルイスを睨みつける。
「えぇぇ〜、ひとりは寂しいよ〜! せっかくマスターが二人でって言ってくれたんだから。ねっ? 一緒に行こうよ、ねっ?!」
ルイスは情けない声を上げ、縋りつくようにリリィの袖を引っ張った。
「もう! ベタベタ触るんじゃないわよ! ……はぁ、まったくもう。何が『怪物』よ、何が『狩人』よ! フタを開けてみれば、ただのヘタレな素人じゃない!」
帝都の闇で恐れられる『狩人』の血生臭い噂と、目の前で袖を引っ張って泣きつく情けない青年の致命的なギャップに、リリィはこめかみを押さえて深い頭痛を感じていた。
「ま、まあ。でも、見張りがいないなら楽そうな仕事で良かったじゃない!」
「館の中に何人潜んでいるかも分からないのに、なんでこれが楽そうに見えるわけ?!」
「え? だって、今夜はこんなに明るい夜だし。外におびき出して、一人ずつ森の中で殺ればいいのかなぁ〜って」
リリィは不審そうに眉をひそめ、そっと頭上の夜空を見上げた。
今宵は、隻月夜――夜空に二つあるはずの月が、一つしか見えない薄い闇の夜だ。
「……アンタは、この頼りないわずかな月明かりの下で、そんなにハッキリ周りが見えているって言うの?」
「う、うん……。たとえば、ほら、あそこの大きなナラ大木の上。ミミズクが羽を休めて、こっちをじっと見ているよ」
ルイスが細い指で示した闇深い小枝を見上げてみる。
だが、リリィの鍛え抜かれた視力をもってしても、そこには夜風に揺れる不気味な枝の影しか視認できない。
「ウソでしょ……? どんな目をしてるのよ、アンタ……」
リリィは半信半疑だった。しかし、彼が王国の偏僻な村で、狩人の祖父から山での狩猟術を叩き込まれて育ったという経歴を思い出していた。暗闇の中で獲物の息遣いを察知し、輪郭を捉えるその夜視能力――それこそが、彼が意図せず発揮する『怪物』としての異能の一片なのだと。
それならば――話は変わってくる。
「分かったわ。ここはアンタの言葉を信じる。……作戦を立てるわよ。まず私が館に潜入し、あの明かりを消して完全な暗闇を作る。あとは、アンタのその常識外れの目が頼りよ……」
「え、あ、はい……」
ルイスは戸惑いの声を漏らす。
故郷の山で祖父とやった獣相手の狩りなど、正直なところすべてが出たとこ勝負だった。作戦などあらかじめ綿密に立てたことなど一度もない。獲物を追い詰めたなら、あとは気配を消し、無我夢中で弓を引くかナイフを叩き込むだけなのだから。
「分かった? じゃあ、合図と同時に行くわよ……」
「えっ?! ちょ、ちょっと待って、リリィちゃーん!」
正直なところ、ルイスは作戦の詳細を半分も理解していなかった。
だが彼の制止も虚しく、リリィの華奢な体が暗闇の中へ、音もなく滑り出すように駆けていく。慌ててルイスもその後に続いた。
――しかし、彼らは知らない。
二人が忍び寄る、更に背後で……。
うっそうと茂る夜の森の木陰から、彼らを追いかけて、もう一人の影がコソコソと這い寄ってきていたことを。
それは――。
(むぅ〜……! ルイスさんとリリィさんが実の兄妹だということは重々分かった! 分かったのだが……しかし、どうにも、胸のざわつきが収まらない……!!)
女騎士――ロザーナ・ベルトランその人であった。
確かに、一度は胸を撫で下ろしたのだ。
ルイスが自分に対して思わせぶりで純朴な態度を見せながら、裏では別の若い少女と良からぬ関係を結んでいるような、最悪の薄情男ではなかったことに……。
だが、世の中には"万が一"というものがある……。
幼少のころ、厳格な騎士団の教育の合間にこっそり読みふけったロマンス小説。そこに稀に描かれていた、禁断の愛……。
血の繋がった兄妹ゆえに引き寄せ合い、社会の倫理を超えて堕ちていく……許されぬ泥沼の恋物語!
(いやいやいやいや! そんな破廉恥なことがあってたまるか! ないとは思うのだがっ! うん。ないっ。絶対に、ルイスさんに限ってはない! だが、しかし、やはりこの目で確かめなくては! もし……もし万が一にもルイスさんがそんな狂気の禁断の花園に足を踏み入れかけているなら……私が、この手で彼を正しい情愛の道へと引き戻さねばッ!!)
正義感と、ほんの少しの乙女心、そして肥大化した妄想が暴走した結果、彼女は非番の身でありながら、あやしげな二人の後を尾行してここまで来てしまったのだ。
今宵、帝都郊外の廃邸宅にて。
血生臭い暗殺劇と、すれ違いの妄想劇が交錯する、惨劇とカオスの一夜が幕を開けようとしていた。
それを知ってか知らずか、夜空に浮かぶひとつの月だけが、冷ややかな光で静かに下界を見下ろしていた――。




