37.修羅場
闇に生きる裏社会の住人以外が万が一にもここに迷い込んだなら、帝都の一角に佇むこの店を、誰もが格式高い超高級な隠れ家的バーだと勘違いするだろう。
渋い飴色に磨き上げられた重厚なカウンター。淡い琥珀色の間接照明が静謐な空間を照らし、カウンターの内側では、店の主であり暗殺者ギルドの頂点に君臨するギルドマスター、ヴィクター・アダムスが、職人らしい手つきで研ぎ石に包丁を滑らせていた。規則的に響くシャー、シャーという金属音が、不思議と店内の静寂を際立たせている。
客たちが声を潜め、物物しい密談を交わす暗がりの中。カウンターの片隅には、対照的な雰囲気を纏った一組の男女が肩を並べていた。
「ね、ねぇ。リリィちゃん……。あの死体、あんな雑に放置してきちゃって本当に大丈夫なのかなぁ……」
消え入りそうな情けない声を漏らしたのは、ルイスだ。額に冷や汗を浮かべ、生きた心地がしないといった様子で隣の少女に視線を送る。
「大丈夫に決まっているでしょう……。下手にバラしたり、埋めたりする方がリスクが高いわ」
リリィは呆れたように一蹴すると、器用にフォークを巻き上げ、真っ赤なトマトソースが絡むパスタをチュルリと優雅に口へ運んだ。暗殺者とは思えぬ可憐な仕草だが、その瞳には冷徹な理性が宿っている。
「で、でもさぁ……本当に、誰かに死体を運んでいたところを、見られたりしてないかなぁ?」
「まあ、仮に見られていたとしてもよ。そんな血生臭い厄介事に自ら首を突っ込みたがる物好きなんて、この帝都には存在しないわ」
「そうなのかなぁ〜……」
ルイスの抱える小心者ゆえの不安は、どれだけ宥められても尽きないようだ。
すると、包丁をコトリと木台の上に置いたヴィクターが、静かに二人へと視線を向けた。
「ルイス君、今晩は何も食べないのかね? 本日のオススメは、“暗殺者のパスタ”なのだが」
「あ……いえ……。お気遣いすみません。その、赤い色の食べ物は、今の僕にはちょっと……」
ルイスは、顔を青くして遠慮した。
その情けない答えに、「ふんっ」とリリィが心底呆れたように鼻を鳴らす。
ヴィクターはくすりと笑みを漏らすと、使い込まれたパイプに火を灯し、紫煙をゆったりと天井へ向け吐き出した。
そして、興味深そうに目を細める。
「ところで……どうだね、ルイス君? リリィの腕前は。彼女は私の愛弟子でね。君の目から見て、彼女の評価をぜひ聞きたいものだな」
「あっ! なるほど〜、ヴィクターさんのお弟子さんだったんだ! だからリリィちゃんも、あんなに料理が上手なんだね?」
ルイスは得心がいったようにぱっと顔を綻ばせ、能天気に頷いた。
「……暗殺の方よ」
ギロリ。
一瞬にして温度を失ったリリィの横目が、ナイフ以上の鋭利さでルイスの眉間を射抜いた。
ルイスの表情がスーッと無に帰り、彼は冷や汗をダラダラと流しながら、気まずさを誤魔化すように手元の白ワインをチビリと舐めた。
「クックック。随分と気心が知れたようじゃないか。それなら、次の依頼も安心して任せることができそうだな」
ヴィクターは薄暗がりの中、不敵な笑みを口元に刻む。
「……はい? ま、また依頼ですか……?」
ルイスは困惑を隠せない。己の中に眠るいびつな正義感が暴走した結果とはいえ、またしても凄惨な殺人に手を染めてしまった直後なのだ。精神的な疲弊はピークに達している。
だが、ルイス以上に過剰な拒絶反応を示したのはリリィの方だった。
「はっ?! ちょっと待ってよマスター! まさか次の案件、コイツとアタシを組ませようって言うんじゃないでしょうね?!」
「その通りだ。今回はルイス君に対する『指名依頼』なのだが……。万全を期すため、バックアップを用意する必要があると私は判断した。頼んだぞ、リリィ」
「ちょっと待ってよ! サイアクなんだけど!!」
リリィは頭を抱え、絶望に満ちた声を上げて顔を覆ってしまった。
「えっと……。僕と、リリィちゃんの二人でヤるってことですか……?」
ルイスは場違いなほど間抜けな面を晒して尋ねる。
「そうだ。いわゆる、ツーマンセルというやつだな。メインで動くのはルイス君……、リリィは後方からのバックアップに専念してもらう」
「あっ、それはすごくいいかもですね!」
ルイスの顔に、ぱっと明るい笑顔が咲いた。
この過酷な暗殺者稼業。毎回一人で暗闇に潜み、孤独と恐怖に耐えながら標的を狩る日々だったのだ。顔なじみの頼もしい相棒がいてくれるのなら、精神的にも格段に楽になるのではないか――という、いつもの深慮に欠けるルイスの楽観主義が遺憾なく発揮された瞬間だった。
「なんでこの私が、今更サブに回らなきゃいけないのよ!」
「言ったはずだ、ルイス君への『指名依頼』だからな……」
ヴィクターはパイプの煙の向こうから、淡々と動かしがたい事実を告げた。
「リ、リリィちゃん……詳しいことはよくわからないけど。その、よろしく、です」
ルイスがへこへこと恐縮しながら手を差し出すと、返ってきたのは再びキッと殺意が凝縮された鋭い眼差しだった。
(ウワァァァァァン! 怖いよー! 最初に会ったときのあの優しかったリリィちゃんは、一体どこへ行っちゃったの〜〜?!)
あまりの温度差に、ルイスは心の中で泣き叫んだ。
その時――静寂に包まれていた店のドアベルが、妙に乱暴な音を立てて鳴り響いた。
カランカランッ! という無遠慮な金属音とともに、店内に風のように駆け込んできたのは――。
「やあ、ルイスさん! やっぱり、ここにいましたか!」
軽やかなルンルンとした足取りでカウンターまで一直線にやってきたのは、騎士団の制服を身に纏った女性、ロザーナ・ベルトランだった。
――しかし。
ルイスの隣に座っていた少女が、鬼の形相でゆっくりと振り返る。
「……あんっ?」
「むっ? ルイスさん。そちらの……可愛らしいお方は……?」
バチバチと火花が散るように、交錯する女と女の視線。
その瞬間、店内に散らばっていた百戦錬磨の暗殺者たちはというと――。
(……おいおい、見ろよあの状況)
(なんだあの修羅場は……? あの凄腕の『狩人』、騎士様の彼女がいながらギルドの看板娘にも手を出してたのか……?)
(クソっ! 羨ま……あ、いや。けしからん! 俺が殺すっ!!)
(うわ、マジかよ。二股か? 命知らずにも程があるだろ)
(あんなに大人しそうなツラして、裏じゃ相当なタラシだな……)
(騎士と暗殺者の争奪戦とか、どんな命がけの愛憎劇だよ……)
(あっ、死んだ……死んだわ。あの新入り……。今晩中に、奴の死体が大通りに転がるな。賭けるか?)
ヒソヒソヒソヒソヒソヒソヒソヒソヒソヒソヒソヒソ……!
事実は何ひとつ合っていないにもかかわらず、男たちの下世話な妄想という名の不穏な風説が、店内を静かに、しかし凄まじい勢いで駆け巡っていく。
ルイスは間抜けではあるが、致命的なバカではない……。
この場の空気の異常すぎるヤバさと、同僚たちの間に瞬く間に広がる危険なざわめきに、己の社会性と生命が、もはや手の打ちようがない"詰み"状態に陥ったことを察し、その顔からはみるみる血の気が引いて真っ白になっていった。
「……ふっ」
"謎の勘違い修羅場"と化した店内で、マスターのヴィクターだけが、愉悦に満ちた笑みを浮かべて静かに目を伏せるのだった。




