35.光
クルクルクル……パシッ。
クルクルクル……パシッ。
金属が風を斬る引き締まった音と、掌に硬質に収まる微かな衝撃。
使い心地を確かめるように、リリィはスローイングナイフを宙に放ち、落ちてくる刃を滑らかな手つきでキャッチする動作を幾度となく繰り返していた。
銀色の刃が月光を反射し、部屋の壁に冷ややかな光の軌跡を描く。
「アンタがくれたこのナイフ、なかなか使い心地がいいわ。一応、礼を言っておくわね」
現在の舞台は、ルイスの自室。
リリィはベッドの端に浅く腰掛け、優雅に足を組んでいる。
対するルイスは、冷たい床の上で直立不動のごとき正座をかまし、まるで厳しい指導を受ける新兵のように小さくなっていた。
年頃の若い女性と二人きり、夜の自室。
そんな甘酸っぱいシチュエーションなど微塵も存在しない。
部屋を支配していたのは、肌を刺すような異様な緊張感と、殺気の残り香だった。
ついに耐えかねたルイスが、引きつった笑みを浮かべながら口を開く。
「あ……あのぅ〜。どちら様……でしょうか?」
「……はぁ?」
リリィの細い眉が跳ね上がり、射殺さんばかりの冷眼がルイスを射貫いた。
「あ、いえ……! はい……リリィちゃん、ですよね。はい……っ!」
ルイスは文字通り蛇に睨まれた蛙のように縮み上がり、気まずそうに視線を泳がせた。その胸中は、激しい後悔とパニックで大荒れだった。
(いや、だって! あの優しくて可愛いリリィちゃんが、まさか裏社会の暗殺者だったなんて普通思わないじゃん! 他人の空似か双子の妹だと思いたいけど、そんなわけあるか! 僕のバカ! 大バカ野郎ーッ!)
現実逃避、失敗……。
だが、リリィの腹に据えかねたのは、ルイスの恐怖心ではなくその呼び方だったらしい。
「リリィ……ちゃん。ですって?」
氷点下の声が降ってくる。
「はいっ! すみません! リリィ……大先輩殿!!」
弾かれたように背筋をピンと伸ばし、ルイスは必死の敬礼姿勢をとった。
「ハァ……いいわよ。この宿の中では、いつも通りにしなさい。他の客や周囲に怪しまれないように……ね」
「は、はい……」
(え、えぇ~。いつもの優しくて明るい宿屋の看板娘は、どこへ行ってしまったの……)
ルイスがひそかに抱いていた甘く淡い恋心は、音を立てて儚く砕け散ったのだった。
先ほど目の当たりにした、冷酷無比な惨殺劇。
可憐な少女の皮を被った目の前の存在が、凄腕の暗殺者であるという紛れもない証拠だった。
「まったく……。アンタ、この短期間で色々とかき乱してくれたわね。今、この帝都の暗部じゃ、謎の新星としてアナタの噂で持ちきりよ」
「へ、へい……さようでございやすか……」
許容量を超えた情報と恐怖のせいで、ルイスの口調はすっかり崩壊している。
「一体、この“魔都”に流れ着く前は、どこで何をしていたの?」
言い終わるか終わらないかの刹那、リリィの指先から淀みない動作でナイフが放たれた。
空気を切り裂く必殺の閃光。
しかし――ルイスはその高速で迫る銀刃に対し、驚くほど自然な動作で手を伸ばした。二本の指先で挟み込むようにして、滑らかに慣性を受け流し、フワリと完璧にキャッチしてみせたのだ。
「は、はい……その……王国のすみっコの方で、色々と……狩りなどを……」
キャッチしたナイフを大切そうに抱えながら、ルイスはおどおどと答える。
「ふーん。やっぱり王国から流れて来たんだ。どこかの闇組織に属していたとか? ……まさか、王族に飼われていた特殊工作員なんて言わないでしょうね?」
リリィの瞳が険しく細められる。超一流の刺客でなければ説明がつかない身体能力だ。だが、返ってきた答えはあまりにも予想外だった。
「……へ? 王族? えっと、山で爺ちゃんと……狩りとか、畑仕事とか、そういうのをやってましたけど……」
「ん?」
「へっ?」
二人の間に、密度の濃い静寂と、なんとも言えぬ間抜けた空気が流れた。
リリィは、このルイスという青年を、裏社会で数々の修羅場を潜り抜けてきた怪物級の暗殺者だと思い込んでいた。
一方、ルイスは単に状況に翻弄され、目を回しているだけの哀れな田舎者であった。
リリィの聡明な頭脳が高速回転し、ある致命的かつ決定的な「行き違い」の可能性へとたどり着く。
「あの……ちなみに聞くけど。『狩り』って、人を狩っていたのよね?」
「いえいえいえいえ! 人殺しなんて帝都に来てからが初めてですよ! 村では熊とか鹿とか……あとワイバーンとかを狩っていたわけでしてっ!」
(わ……ワイバーン……!?)
リリィはこめかみを押さえた。
Aランクの熟練冒険者パーティが死力を尽くして挑むレベルの巨大魔獣だ。
「じ……じゃあ、あの狙撃の精度は何なのよ!? あのあり得ない遠距離から、見たこともない鉄の矢で、あの豚議員を血祭りに上げたじゃない!!」
「あれは……爺ちゃんから習った、深い山で俊敏な獲物を射抜く時のコツでして……」
問い詰められるたび、ルイスの身体は小さく縮こまっていく。
リリィは立ち上がると、ルイスの手からナイフを引ったくるように取り返し、その冷たい切っ先をルイスの鼻先へ突きつけた。
「……うん。分かったわ。分からないけど。なんとなくは、理解した。だから……全部話しなさい! 包み隠さず全部! アナタがここに来た理由も、何を考えていたかも、その頭の中のすべてをよ!!」
我慢の限界を迎えたリリィの叫びが部屋に響く。ルイスは身体を仰け反らせながら、冷や汗を滝のように流した。
――そうして、腹をくくったルイスは、すべてを白状した。洗いざらい、全部だ。
本当は王都に行って高名な冒険者になりたかったこと。
方向音痴を発揮して逆方向に突き進み、気づけば国境を越えて帝都に入り込んでいたこと。
冒険者ギルドと勘違いして、闇の暗殺者ギルドの門を叩いてしまったこと。
そして、躊躇なく暗殺を遂行していた理由――それは、祖父から叩き込まれた、偏ってはいるが彼の中で完結している極端な道徳観だった。
『世の中の悪者は、害虫と同じだから遠慮なく駆除しろ!』という言葉を純粋に信じ切っていたのだ。
すべての点と点が繋がり、リリィは深く重い溜息をつきながら、頭を抱えて項垂れた。
「まったく……アンタのお爺さんって何者よ? なんでそんな規格外の狂人が王国のクソ田舎に隠遁してるのよ……」
一人で勝手にルイスを警戒し、深読みし、ヤキモキしていた自分が心底バカらしくなる。
この男は、あまりにも規格外で間抜けだったからこそ、周囲に「冷徹な凄腕暗殺者」だと誤解され続け、自分自身は「折を見てギルドを穏便に抜けよう」などと能天気に企んでいたのだ。
「イヤぁ、ハッハッハ! 爺ちゃんはね、村一番の頑固者でさ。でも、すごく優しいんだよ!」
「悪人は即殺せ! なんて孫に英才教育する奴のどこが優しいのよ!?」
たまらず鋭いツッコミを入れるリリィ。
「え、ええぇ……。でも、リリィちゃんもさっき、悪者を手際よく始末してたよね?」
「この街じゃどいつもコイツも悪党なの! アンタがいた、長閑な村とは違うのよ! 救いなんてどこにもない、クソみたいな場所なの!」
なぜか感情を高ぶらせて激昂するリリィに、ルイスは焦って人差し指を口元に当てた。
「シー! シー! リリィちゃん、声が大きいって! 他のお客さんにも聞こえちゃうでしょ?」
「アンタはギルドの重要観察対象なの! 両隣の部屋は空室にしてあるし、この部屋の壁には防音対策がしてあるわよ!」
「えっ……あ、そうだったの……?」
目を白黒させるルイスを見て、リリィの苛立ちは頂点に達した。
「あーもう! 私がバカみたいじゃない?! なんでこんなアンポンタンに勝手に焦って、勝手に嫉妬して……! くそっ、腹が立つわね!!」
リリィはバッと立ち上がると、手にしていたナイフをルイスの胸元へ向けて、再び全力で投げつけた。
しかし――。
「えぇ~〜?! リ、リリィちゃん……。このナイフ、いらないの……?」
投擲されたナイフは、ルイスの指先によって再び完璧に無力化されていた。彼は捨てられた子犬のような、心底悲しそうな瞳でリリィを見つめている。
殺意すらこもった全力投擲を、息を吸うように受け止める動体視力と空間把握力。やはり、常軌を逸した神業だ。
彼がもし初めから暗殺者ではなく冒険者になっていれば、間違いなく大陸中にその名をとどろかせる英雄となっていただろう。
「いらないとは言ってない! ああもう! ギルドマスターに全部報告して、アンタを消してやるわ!!」
「お願い! お願いしますリリィ様!! そんなことしたら僕、僕はァぁぁぁ!!」
「こ、コラッ!! 抱きつくな! 離れなさいッ!!」
なりふり構わずすがりついてくるルイスを、リリィは必死で振り払おうとする。
「お願いします! 僕、まだ死にたくないよぉ! ウワァァァァン!!」
ついにルイスはベッドの上でリリィに組み付いたまま、子供のように号泣し始めた。
あまりの筋力と体重移動に、リリィは身動きが取れない。
「気持ち悪い! 離れなさいってば! ……分かった! 分かったわよ!! アンタが暗殺者ギルドを無事に脱退できるよう、手伝ってあげるからぁぁぁぁ!!」
その言葉が出た瞬間、ルイスの動きがピタと止まった。
ベッドの上で、彼がリリィを押し倒すような格好のまま、至近距離で視線が交錯する。
「……え? 本当っ!?」
涙と鼻水でグチャグチャの顔に、ぱっと花が咲くような満面の笑顔が浮かんだ。
「早く、どきなさいよ……!」
リリィは顔を赤くしながらルイスを押し退け、乱れた服を整えつつ上半身を起こした。
「ほ、本当に抜けられるの……? 裏切り者は追われて、消されるんじゃ……。あの、ブロウ先輩みたいに……」
先日、見せしめとして血溜まりの中に転がされていた元同僚の末路を思い出し、ルイスは身震いする。
「ええ、そうね。掟ではそうなっているわ。でも……前例がないわけじゃない」
「そ、それってどんな……!?」
再びすがりつこうとしてくるルイスを見下ろしながら、リリィの脳裏に意地悪で計算深い打算が浮かんだ。
この間抜けな怪物のせいで散々振り回され、精神を削られたのだ。
この際、利用できるだけ利用して元を取ってやらなければ気が済まない。
「……嫌。教えない」
「なんでぇっ!?」
「物事には対価が必要なのよ。脱退の手引きをしてあげる代わりに……しばらくの間、アナタは私の仕事を手伝いなさい」
「え、ええ? 僕がリリィちゃんの……宿屋の手伝いを?」
「バカっ! 暗殺の方よ!!」
リリィは深く溜息をつき、どっと押し寄せてきた精神的な疲労感に肩を落とした。
それから細かな条件や取り決めを交わし、ルイスはようやく平常心を取り戻した。
リリィがルイスの部屋を辞し、ドアノブに手をかけた時。
「じゃあ! おやすみ、リリィちゅわ〜〜〜ん!」
手を振るルイスの顔は、あまりにも平和そのものだった。間抜けもここまで極まれば人生を楽しめるのだろうか……? とリリィは頭痛を覚えた。
ギシ……と静かに戸を閉め、ランタンの光が届きにくい薄暗い廊下へ足を踏み出した、その時だった。
「ケッケッケ……なーんだ。お前、裏でそういう『サービス』もやってたのか?」
ねっとりとした下劣な声が暗がりから響く。
見れば、そこにいたのは宿の二階奥の部屋を長期で借りている、ガラの悪い冒険者の男だった。
「いやぁ、ずいぶんと長い時間、あの部屋の男に濃厚な奉仕をしてたみたいだな? ベッドがドタバタ鳴ってるの、聞こえてたぜぇ?」
リリィは眉一つ動かさず、舌打ちしそうになるのを冷徹に殺した。
どうやらこの下衆野郎は、宿屋を一人で営む可憐な少女が、客に身体を売ることで客を引き止めているのだと、愚かにも勘違いしたらしい。
「いくらだ? 次は俺にも――」
ニヤけた顔で手を伸ばしてきた瞬間、男の言葉は途切れた。
男の手の甲に、いつの間にか銀色のナイフが深く突き刺さっていた。
「……ん? あ、あれ……?」
自分の手から生えた刃物と、溢れ出す赤黒い液体を、男は状況が理解できず呆然と見つめる。
直後、リリィは手加減なしに男の首根っこを掴むと、力任せにドアを蹴り開け、そのままルイスの部屋の中へと放り投げた。
バタン、と音を立ててドアが閉ざされる。
「ルイス! こいつ、悪者よ。幼くて可憐な私を、力づくで襲おうとしたの……。だから、ヤッちゃって」
その言葉を聞いた瞬間。
ベッドの端に座っていたルイスが、ユラリと立ち上がった。
「ふ〜ん。……オジサン……それはダメだよ。それは、本当にダメなことだ……」
ルイスの瞳から生気が消え、影が落ちる。
口角がニタリと歪な形に釣り上がり、懐から滑らかな動作で一振りのナイフを引き抜いた。
「……ヒ、ヒィィィ!? く、来るな! な、なんだ、お、お前はっ……!?」
男は無数の修羅場を潜り抜け、危険な魔獣とも対峙してきた経験豊富な冒険者だった。
だからこそ、生存本能が超高密度で警鐘を鳴らしていた。
目の前にいる存在は、人間ではない。
とても、そうは見えない……。
無邪気な顔をした、――純粋なる殺戮の怪物だと。
「女の子には優しくしなきゃ。ね? 次からは気をつけてよ? ……もし、来世で覚えていたら……だけど」
男が最後に視界に捉えたのは、少年のように無垢な笑顔と、一閃の銀光だった。




