34.硝子の月と血に濡れた君
「ふぅ……どうにか、なったか……」
疲弊しきった息を吐き出し、ルイスはぐったりと肩を落とした。街灯の光も届かない漆黒の路地裏を、重い足取りで帰路につく。
まさか現場の帰り道で拾った毒の小瓶を、「可愛らしくて綺麗だったから」というあまりにも軽率な理由で持ち帰っていたとは。帝都の治安を預かる権化たる『騎士団』の身でありながら、なんの躊躇もなく占有離脱物横領をやらかしたロザーナの度し難さに、ルイスは頭を抱えずにはいられなかった。
胸元に手を伸ばし、首にかけた革紐をたぐり寄せる。 先端に結ばれた指先ほどの小さな硝子瓶を摘み上げ、雲の切れ間から覗く薄い星明かりに透かしてみた。
中で揺らめくのは、極めて濃密な紫色の液体だ。
「まあ……国が変われば、規範意識ってやつも違うのかな……?」
ルイスはポツリとひとりごちた。
かつて読んだ本によれば、過酷な大平原に生きる民は、馬賊による略奪すら日常の風景として受け入れ、家財や食料をあえて差し出すことで共生関係を築いているという。
まして、ここは周囲から『魔都』とすら揶揄される混沌の帝都だ。
ルイスが生まれ育った王国の平和なド田舎とは、社会の仕組みそのものが違うのかもしれない。
落とし物が持ち主の元へ素直に返ってくることなど、そもそも期待するほうが間違っているのだ――と、ルイスは強引に自分を納得させた。
件の小瓶をロザーナの首元から首尾よく回収するため、ルイスが一計を案じたのは小一時間ほど前のことだ……。
『へぇ〜! すごく綺麗で素敵な小瓶ですね〜。ロザーナさん、とってもお洒落だなあ!』
まずは、褒めちぎる。
『や、やっぱり……そうかなあ? くっひっひっひっ!』
露骨に頬を緩め、満更でもなさそうに鼻の下を伸ばすロザーナに、ルイスは間髪入れずに追撃の言葉を叩き込んだ。
『うん! いいなあ、羨ましいなあ〜。僕も欲しいくらいですよ〜』
『ん? ルイスさんも、こういった装飾品や小さな硝子瓶がお好きなのですか?』
『は、はい! そうなんですよ〜。実はナイフの収集と一緒に、そういう珍しい造形の硝子瓶を集めるのが趣味でして〜』
息を吐くようにペラペラと捏造した嘘を並べ立てると――。
『まあ、そうなのですね! あ、あの……もしよろしければ、これ……どうぞ! プレゼントです! この前のナイフのお礼と言いますか……!』
――あっけなく、ミッション・コンプリート。
またしても彼女の底抜けなチョロさに救われた格好だが、その純真無垢な乙女心を平然と踏みにじった罪悪感は、千のナイフとなってルイスの胸を容赦なく滅多刺しにしていた。
その後、人目を盗んで元の持ち主であるパイソン・リキッドに小瓶を返却しようとしたのだが――。
『バッカお前、あんな大口叩いて受け取っておいて、すぐ手放したら速攻で疑われるだろ!』
『え、ええ……でも、そのためにわざわざ取り返したわけですし……』
『いやいや! お前が預かっていてくれるなら俺も一番安心なんだ。頼むからしばらく肌身離さず持っていてくれ!』
泣きつかれては断ることもできず、結果としてルイスは、帝都屈指の危険な猛毒を常に持ち歩く羽目になってしまったのだった。
「……あ。でも、これを使って毒矢を作ったら、ゴブリン退治がもっと楽になるかな?」
ふと無駄に回転の速い頭が閃き、ルイスの表情が明るくなる。
狩りに出た際、あの喰いでもなく価値もない害獣どもと付き合うのは骨折り損のくたびれ儲けでしかない。もし一塗りでサクサクと息の根を止められるのなら、これほど効率的な話はないはずだ。そう思い至ると、重かった足取りも俄然軽くなってきた。
「ん〜……確か、こっちの路地を通った方が近道だったな」
思考を切り替え、さらに細く狭い路地へと足を踏み入れ屈曲する。
この暗がりを一直線に突っ切れば、リリィの営む宿屋へと続く最短ルートだ。
街灯の光すら届かない闇の隙間だが、夜目が異常に利くルイスにとっては何の障害にもならない。
視線を上に向ければ、雲の開合に合わせて頼りない星明かりが明滅していた。
上空の風は思いのほか強いらしい。今夜のうちに一雨来るかもしれない。
崩れかけた木樽の上で、丸くなった黒猫が静かな寝息を立てていた。
ルイスは起こさぬよう気配を消し、忍び足でその横を通り抜ける。
さらに進むと、年季の入った石造りの建物から、男たちの粗暴な怒号と、何かがめり込むような鈍い不穏な音が漏れ聞こえてきた。
「うわ〜、ヤダなあ……喧嘩かな〜。物騒だなあ……」
顔を顰めて呟くルイス。
だが、彼自身が裏社会で「凶悪な暗殺者」として恐れられている事実を、当の本人はすっかり失念していた。今この帝都において、誰よりも物騒で危険な存在は間違いなく彼自身なのだが……。
関わり合いになりたくないとばかりに、騒ぎの漏れ出る高窓の下をそそくさと通り抜けようとした――まさに、その時だった。
――ガシャンッ!!!!
「えっ……!? うわっ!?」
頭上から響いた破壊音とともに、ルイスの背中に激しい衝撃が走った。
無数の鋭利な硝子片が散らばり、石畳を叩く。
間髪入れず、ルイスの足元へ転がり落ちてきたのは――全身を血に染めた一人の男だった。
男はもつれる足で必死に這い上がり、狂乱したように駆け出そうとする。
「う、うあぁぁぁぁっ! た、助け――ガハッッッ!?」
突然の惨劇に、ルイスは目を丸くして狼狽した。
「え!? ええっ!? な、なに!?」
男が糸の切れた操り人形のろうに、ゆっくりと振り返る。
支えを失ったその両眼は右と左で全く異なる方向を向いており、口から大量の血を吐き出すと、そのまま崩れるように石畳へ伏した。
ルイスが凝視すると、男の側頭部――耳のすぐ上の骨に、深々と突き刺さる金属の輝きがあった。
それは、あまりにも見覚えのある、美しい銀の輝き。
(あれは……僕が、『彼女』にプレゼントした、あの……?)
あまりの非現実的な光景に、ルイスの思考が上滑りを起こす。 直後――背後の木製ドアが、ギィィィ……と嫌な高音を立てて開いた。
闇の奥から流れてきたのは、凜とした、氷のように冷たい声。
「……まったく。私としたことが……目撃者を出しちゃうなんてね」
聞き慣れたその声に、ルイスの首が凍りついたようにゆっくり、ゆっくりと回転する。
視線の先に存在したのは、見慣れた鮮やかな金髪のポニーテール。
だが――その下に刻まれていたのは、ルイスの知らない、凍てつくように鋭く冷徹な双眸だった。
「あ、あれ……? な、なんで……」
掠れた声しか出ない。
「ふぅ……。まあ、アンタだったから……わざわざ『消す』必要もなさそうだけど」
そう言って吐息を漏らしたのは――。
「な、何してるの……? その、こんな、ところで……?」
上空の厚い雲が風に流され、細い月光が真っ暗な路地裏を静かに照らし出す。 蒼白色の月明かりの下に佇んでいたのは、全身を返り血で赤く染めた、宿屋の看板娘――リリィだった。
第一話にプロローグを追加しました。




